cinemania 映画の記録

cinemania’s diary

てらさわホーク『マーベル映画究極批評』の問題点について

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 特に前置きもなく始めるが、まず、最初に気になった点。本書には出典の表記が見当たらないのである。

 最近、幻冬舎から歴史書という触れ込みで出版された『日本国紀』が、他の文献やウェブからの多数の転載があるにもかかわらず参照元の表記がない点で、厳しい批判を受けている。てらさわホークも、著者のことをTwitterで何度か批判していたようだ。しかし、この『究極批評』という書籍もまた、同様の欠陥を抱えているわけである。いや、これはただの「映画エッセイ」なのだから、そこまで厳密にする必要はない、ということなのかもしれない。しかし、それならば「批評」という言葉を安易に使っては欲しくない。また、単なる雑文集と割り切って読むにしても、参考文献の記載すら無いというのは、さすがに困ってしまう(ちなみに、この本には膨大な欄外註があるので、スペースの都合という理由ではなさそうだ)

 具体例をひとつ上げてみよう。本書では、マーベルの責任者であるアイザック・パールムッターについて、何度も言及している。MCUの歴史を語る上では外せない人物であり、現在は、ケヴィン・ファイギボブ・アイガーによって、映画部門からは事実上追われているという。パールムッターが、いかにMCUの内容に介入したのかについて、『アントマン』の章では、次のように解説されている。

マーベル・エンターテインメントCEO、アイザック・パールムッターの直下に組織された委員会には、同社社長のアラン・ファイン、マーベル・コミックス編集長ダン・バックリー、チーフ・クリエイティヴ・オフィサーのジョー・カサーダ、そして作家のマイケル・ブライアン・ベンディスと言うメンバーが集められ、スタジオが製作する映画作品に対して、さまざまな監修を行ったとされている。委員会からは、コミックとの整合性に関する細やかな指摘や、ときには脚本への修正指示までもが現場へのメモとして届けられた。コミッティのメンバーは、それぞれ本職を持っていたためにその指示は遅く、しばしば製作の現場に混乱を招いた。エドガー・ライトが『アントマン』からの降板を決めた背景にも、このコミッティからのメモがあったと言われている。
コミッティは、『ガーディアン・オブ・ギャラクシ-』のサウンドトラックにも口を出している。70年代のヒット曲が作品にそぐわないと判断したのか、または楽曲の使用料を節約しようとしたのか、それは定かではない。確かなのは、物言いをつけられてフラストレーションを溜めたジェームズ・ガンが、委員会を指して「コミック屋と玩具屋のグループ」と呼んだことだけだ。(P.146~147)

 この情報が何を出典としているかは、まったく説明がない。ためしに、いくつかのキーワードで検索すると、ヴァニティ・フェアの記事が数秒で見つかった。

Since this post originally went up, Birth Death Movies reported that in addition to cutting Ike Perlmutter out of the creative process, Marvel has also disbanded its Creative Committee, which consisted of “Alan Fine, who came with Perlmutter to Marvel through Toy Biz, Brian Michael Bendis, who is a prolific Marvel Comics writer, Dan Buckley, publisher of Marvel Comics and Joe Quesada, former editor-in-chief of Marvel Comics and the current Chief Creative Officer of Marvel Enterprises.” According to the report, the Creative Committee was responsible for a lot of delays on conservative feedback on Marvel cinematic properties.


https://www.vanityfair.com/hollywood/2015/09/marvel-studios-ike-perlmutter-kevin-feige

Director James Gunn chalked up every conflict he had making Guardians of the Galaxy to Perlmutter and the Marvel “creative committee”—a legacy of the studio’s early days—which read every script and gave writers and filmmakers feedback. Said Gunn, “They were a group of comic-book writers and toy people” who gave him “haphazard” notes. The committee, for example, suggested Guardians of the Galaxy ditch the 70s music that the film’s hero loves.


https://www.vanityfair.com/hollywood/2017/11/marvel-cover-story

 おそらく、これらのネット記事を参考にしつつ書いたと断定しても良さそうである。短い文章の中で” committee”の訳語が「コミッティ」「委員会」と全く統一されていないのも、そう言えば、グーグル翻訳を使うとよく起こる現象ではある(さすがに、そんなことは、してないだろうが)。こうやってネタ元がすぐに特定できれば、読む側も苦労はしないのだが、そうではない箇所も当然ながら出てくる。

 パールムッターは、マスコミにほとんど露出していないこともあり、ファイギやアヴィ・アラドといった他のマーベルの重要人物に比べると言及されることは少ない――日本語の文献としては、『ブロックバスター戦略:ハーバードで教えているメガヒットの法則』(アニータ・エルバース著)などがある――ため、下手をすると、この『究極批評』が、今後、資料として参照されてしまう事態もありえるわけだ。やはり、全てとは言わなくても、必要最低限、出典の表記は必要だろう。

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 次に気になる点を挙げると、本書の前半と後半で、著者の主張にブレが生じてくることである。

 てらさわホークの、フェイズ1からフェイズ2にかけての主張は、とてもシンプルである。アメコミヒーロー映画は単純で明るくて、演出もわかりやすいものが優れているというものだ。

 例えば『インクレディブル・ハルク』の章では、MCU以前に製作されたアン・リー監督の『ハルク』を酷評し、その重厚なドラマ作りを嘲笑する。そして、シンプルなアクションに徹した『インクレディブル・ハルク』を称賛して、次のように書く。

傍目から見れば、いかにも荒唐無稽な物語でしかない。だが、その物語の前後左右に立派な理由づけを行い、いかにも重大な価値のあるものにみせかけようとするのではなく、おなじみのストーリーを何の衒いもなく実写に叩きつけてみせる。これは明らかにコミックであり、それ以上でもそれ以下でもないが、マーベル・スタジオズ版『インクレディブル・ハルク』はそれを自信を持って堂々とやり切っている。そこに得体の知れない感動を覚える。

 また、『マイティー・ソー:ダーク・ワールド』の章では、当初の監督だったパティ・ジェンキンスが降板させられた件について、次のように解説している。

ジェンキンスがマーベル・スタジオズに提案したのは、宇宙をまたいだ『ロミオとジュリエット』とでも呼ぶべき物語だったという。(中略)ケネス・ブラナーのあとを引き継いだ監督が、シェイクスピア調になるのは理解できる。(中略)だが、ジェンキンスの提案した引き裂かれた男女のドラマはマーベル側の求めるものではなかった。(中略)かつて、ケヴィン・ファイギがいみじくも言ったように、コミック映画の成功の鍵はコミックそのもののなかにある。シェイクスピアであれギリシャ悲劇であれ、そうしたジャンルの威光を借りなくとも、コミックを映画にすればいい。その理念があったからこそ、ジェンキンスとの「方向性の違い」が生じたのではないか。そう思えてならない。(P.96~98)

 つまり、アメコミ映画は単純明快であるべきであり、マーベルもまた同様に考えているはずであり、故にパティ・ジェンキンス監督は解雇されたのだと主張しているわけだ。(ちなみに、ジェンキンスは、女性キャラクターをもっと活躍させようとして反対されたとする記事もある)

映画秘宝」などのライターとして、かつて、クリストファー・ノーランの『ダークナイト』や、ザック・スナイダーの『マン・オブ・スティール』などをくり返し批判し、最近では『シュワルツェネッガー主義』という著作もある、てらさわホークの、アメコミヒーロー映画についての評価基準は、おおむね、このような感じである。

 フェイズ1の『アベンジャーズ』の章では、クライマックスのニューヨーク決戦について、次のように述べている。「同時多発テロの記憶に理想的な結末を書き加えたい、という意志が働いていたのではないか。もちろん、これは仮説に過ぎず、ジョス・ウェドンとマーベル・スタジオズが何を考えていたかは知るよしもない」(P.77) このくだりからも、当初は、映画から安易に政治的メッセージを読み取らないよう、慎重な姿勢をとっていることがうかがえる。

 ところが、フェイズ2終盤の『キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー』の章になると、見方が大きく変わってくる。てらさわホークは、脚本家が、この映画は政治的ではないと発言していることを紹介した上で、「とはいえ、今の社会に対するコメンタリーが、どうしても行間から漏れ出している。作り手が何を言おうが、これは間違いなく21世紀の今日だからこそ成立した映画だ」(P.111)と断言するようになる。

 フェイズ3では、この傾向は更に強まっていく。たとえば、『マイティー・ソー:バトルロイヤル』について、「最初の有色人監督であるワイティティが、オフビートなコメディの底に政治的なテーマを置いたことは大きな意義がある」(P.201)と唱える。また『ブラックパンサー』も、MCU初の黒人ヒーロー主演作として、当然ながら賛辞を惜しまず、「暗喩ではない直接的な言葉をもって、現実社会への言及をマーベルがついに始めた。」(P213)と、メッセージそのものを評価するようになる。

 しかし、もともとの主張を当てはめるなら、『プラックパンサー』は、「物語の前後左右に立派な理由づけを行い、いかにも重大な価値のあるものにみせかけようと」した典型的な作品であるはずだ。しかも、てらさわホークは、アクション描写の不出来さを厳しく批判して「ここまで凡庸なアクション場面を、なぜよしとしてしまったのだろう」(P.211)とまで言っているのだ。アクションはダメだけどメッセージに賛同するから絶賛します、というのでは、フェイズ1を論じていた頃の姿勢とは、ずいぶんと離れている。

 これが単に、MCUの作風が、昔と今では変化してきたので、評価の仕方も変えたのだ、というのであれば理解はできる。だが、てらさわホークは、フェイズ3の章に入ると、「コミックへの実写化を臆面もなく繰り返してきたかと見えたマーベル・スタジオズの作品は、実はそこかしこに現代社会へのコメンタリーが仕組まれてきた」(P.212)と『インクレディブル・ハルク』の章で言ったことを、ひっくり返すのである。
 もし、てらさわホークの主張を説得力のあるものにするならば、フェイズ1とフェイズ2の作品群にも、さまざまな「政治的暗喩」が仕組まれていたことを、あらかじめ指摘しておかなければならない。だが、そのような指摘は、ほとんど見られない。

 たとえば、『キャプテン・マーベル』の章で、てらさわホークは、次のように唱える。

パターナリズム、すなわち父権主義。立場の強い者が、弱い者の意思決定に強制的に介入する。その考え方が誤っていたとしても、まず尊敬することを求められる。そんな理不尽なシステムに、マーベル・ヒーローたちは悩み、苦しんできた。(P.239)

 まるで父権主義との戦いが、シリーズのテーマであったかのような書きぶりである。もしも、それまでの章で、このような議論を積み重ねてきたのであれば、この言葉にも説得力が生まれただろう。しかし、MCUにおいて父と息子の葛藤がよく描かれるという指摘こそ、何度かあるものの、そこから「理不尽なシステム」への批判を読み取るような姿勢は感じられなかった。

 ソーの3部作は、父オーディンの影響から主人公がついに脱して、とうとう自己を確立するまでのストーリーと読むこともできる。(P.239)

 こんな発言にしても、過去の3つの章で、そういう読み方を明示していない以上は、後出しジャンケンの感は否めない。

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 本書が、後づけで加えていくのは、「父権主義批判」だけではない。人種をめぐる問題もそうである。

 てらさわホークは、『ドクター・ストレンジ』の章の最後で、突然「ホワイトウォッシュ問題」にふれる。原作コミックではチベット人とされるエンシェント・ワンを白人女性のティルダ・スウィントンが演じた点については、当時大きな批判があり、マーベルやスウィントン本人も声明を出して、差別的意図はなかったと弁明する事態になった。てらさわホークは、この批判に賛意を示し、「マーベル映画においては人種の多様性が解決されるべき問題として残っていることも事実ではある。」(P.172)と唐突に言い出すのだ。

 唐突と書いたのは、本書では、人種は多様であるべきという主張は特にされてこなかったからである。それどころか、『キャプテン・アメリカ/ファースト・アベンジャー』の章では、主人公が所属するハウリングコマンドーズが「人種国籍混合の寄せ集め部隊」(P.64)として描かれる点について、第二世界大戦当時にはありえなかったはずだと、時代考証の観点から批判していたほどである。

アイアンマン3』の章ではどうだろうか。この作品には、ヴィランとして、アジア人のテロリスト、マンダリンが登場する。演じるのはベン・キングスレー。過去にも、『ガンジー』に主演した経歴の持ち主である。少なからぬ観客は、「また白人が有色人種を演じるのか」と思ったのだが、実は、その正体は、トレバー・スラッテリーという俳優が演じた偽物だった事が明かされる。これは、「ハリウッド映画は、オリエンタルな悪役を好んで登場させ、白人に演じさせてきた」という過去を踏まえたトリックである。普通なら、白人が東洋人を演じている時点で明らかに変なのだが、観客は、そういうものとして見過ごしてしまうという「偏見」を利用したわけだ(キングスレー自身はインド人の血筋をひいているが)。しかし、てらさわホークは、マンダリンについては全く論じていない。あらすじ紹介で名前が出るのみで、正体にも触れていない。興味の対象外なのだ。

 MCUには、その後も「人種のトリック」を用いた作品がある。『スパイダーマン:ホームカミング』は、マイケル・キートンが、ヴィランのヴァルチャーを演じている。一方で、ローラ・ハリアーが、ヒロインの一人であるリズ・アレンを演じている。二人をめぐるドラマは並行して描かれるのだが、クライマックスで思わぬ形で交差する。実は二人は親子だったのである。白人のキートンと、黒人の血をひくハリアーが、血縁者を演じていると想定していなかった観客は、ショックを受けたことだろう。(ここで、『ホームカミング』が、過去の『スパイダーマン』シリーズに比べても、ニューヨークの人種混合ぶりを丁寧に描いてきたことが、ある種の伏線だったことがわかる)
 てらさわホークは、ヴァルチャーことエイドリアン・トゥームスのキャラクター造形を絶賛しており、数ページにわたって論じている。問題の場面も、「このトゥームスこそが、ピーターの好きになった同級生、リズ・アレンの父親だということが明らかになった際の衝撃。」(P.190)と褒めているのだが、しかしここでも、人種のトリックには触れていない。

 こうして見ていくと、てらさわホークが、MCUにおける有色人種の描き方について、注意を払ってきたようには、あまり思えないのである。

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 本書は、本来の完結編である『アベンジャーズ/エンドゲーム』は取り上げておらず、最後の章が『キャプテン・マーベル』になっている。

 ここでも、てらさわホークは「主人公がパターナリズムを明快に突破するところに、『キャプテン・マーベル』の新しさと素晴らしさがある」(P.240)と、政治的なメッセージを讃えている。先に紹介した『ブラックパンサー』の章における「暗喩ではない直接的な言葉をもって、現実社会への言及をマーベルがついに始めた。」(P213) といった発言と合わせると、まるで、本書の結論は「MCUは、政治的主張の強調を新しく始めた」といった風にも読めてしまう――およそ政治的とは言えない『エンドゲーム』を観てしまえば、かなり怪しい見方であることは明らかではあるが。

 それにしても、『キャプテン・マーベル』のフェミニズム的なメッセージを高く評価するこの『究極批評』の中で、女性について、どれだけ語られてきたのだろうか。

 MCUは、『ドクター・ストレンジ』以前にも、いわゆる「政治的に正しくない描写」が批判を浴びたことがある。『アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン』で明かされた、ブラック・ウィドウが不妊手術を受けさせられていたという設定に対してである。しかし、てらさわホークは、この件について「ウェドンに対する指弾は、少々短絡的に過ぎるのではないかと思う。」(P.135)と軽くあしらって、おしまいにしている。

 最初から読み返してみても、『アイアンマン』の章にはペッパー・ポッツの名前は出てこない。『インクレディブル・ハルク』のベティ・ロスは、あらすじ紹介に登場するのみ。『アイアンマン2』で初登場したブラック・ウィドウは、ニック・フューリーの部下としか説明されない。『マイティー・ソー』のジェーン・フォスターも、『キャプテン・アメリカ』のペギー・カーターも、ほぼ同様である。 
 それどころか、フェイズ3の『ブラックパンサー』の章でも、黒人ヒーローが描かれたことに最大級の賛辞を送りつつ、女性キャラクターについては、シュリもオコエも、名前すら出てこないのである。『ガーディアン・オブ・ギャラクシー』の、ガモーラやネビュラですら、特筆されているわけではない。

 結局、本書で、MCUの女性描写について、「彼女たちのキャラクターにはひとつの枷が嵌められていないだろうか」(P231)という問題提起が初めてなされるのは、最後から2番めの章にあたる『アントマン&ワスプ』にいたってのことになる。しかもそれは、MCUにおける男性サイドキック(相棒)が単調だという指摘とセットになっており、どうも、てらさわホークは、女性キャラクターにサポート役以上の意味を見出していないかのような書きぶりなのである。

 率直に言ってしまうと、てらさわホークの女性キャラクターたちに対する無関心ぶりは、本書が何度も批判的に言及するアイザック・パールムッターの女性軽視とは、さして距離がなさそうに見える。それが『キャプテン・マーベル』の章で、突然のフェミニズム讃歌となるので、一読者としては戸惑うしかない。

 てらさわホークが関心を向けないのは、何も女性キャラクターだけではない。本書では、それまで各監督の個性について、それなりの紙数を割いてきた。ルイ・テレリエ(P.35)やアラン・テイラー(P.98)、ペイトン・リード(P.142)といった、世間では、ほとんど作家性を論じられたことのない監督でさえ、わずかでも言及はあった。ところが、『キャプテン・マーベル』の共同監督であるアンナ・ボーデンとライアン・フレックは、すっかり無視されているのである。特にボーデンは、MCU映画では初の女性監督であるにもかかわらず、プロフィールの紹介すらないのだ。これが単なる、見落としでも、うっかりミスでもなさそうなのは、DCユニバースの『ワンダーウーマン』にも何度か言及しているのにも関わらず、その監督がパティ・ジェンキンスである点について触れていないことからも推測される――ここで、ジェンキンスの『ダーク・ワールド』降板事件を、一方的に彼女の非であるとしていたことを思い出してもいいだろう。

 ともあれ、女性の父権からの解放の素晴らしさを謳い上げつつも、その作品を作りあげた女性が「見えない人間」と化しているのは、この本の特徴をよく表しているように思える。

 他にも気になる点は幾つかあるのだが、すでに長文となってしまったので、ひとまず、ここまでとしておく。今後、版元に増補版を出す意志があるのであれば、単に『エンドゲーム』の章を足すだけではなく、特にフェイズ1から2にかけての部分は、全面的に手を加えるべきだろうし、できれば、資料の出典も付け加えるように著者に求めれば、より良い内容になるのでは、と思われます。


【主な参考資料(ウェブ限定)】

"Secrets of the Marvel Universe"
https://www.vanityfair.com/hollywood/2017/11/marvel-cover-story

"Avengers: Endgame Doesn’t Just Mark the End of the Avengers as We Know Them"
https://www.gq.com/story/avengers-endgame-doesnt-just-mark-the-end-of-the-avengers-as-we-know-them

"Why It Matters That Marvel Studios Just Escaped Its Eccentric Billionaire C.E.O. "
https://www.vanityfair.com/hollywood/2015/09/marvel-studios-ike-perlmutter-kevin-feige

"Superheroes soar above Disney tensions"
https://www.ft.com/content/34fe39a6-e79f-11e1-8686-00144feab49a

"Why Director Patty Jenkins Left Marvel’s “Thor 2”"
https://www.buzzfeed.com/susancheng/patty-jenkins-thor-2

"Why 'Thor: The Dark World' is Still Marvel's Worst Movie"
https://www.moviefone.com/2018/11/06/thor-the-dark-world-worst-marvel-movie/

"Disney And Marvel Do Damage Control After Media Scrutiny Of Big Boss Ike Perlmutte"
https://deadline.com/2012/08/disney-and-marvel-do-damage-control-ike-perlmutter-from-media-attacks-320837/

"Marvel Shake-Up: Film Chief Kevin Feige Breaks Free of CEO Ike Perlmutter"
https://www.hollywoodreporter.com/news/marvel-shake-up-film-chief-819205

"Spider-Man's colourblind casting: a case of when it's OK to break with the canon"
https://www.theguardian.com/film/2016/aug/22/spider-man-colourblind-casting-zendaya-mary-jane-watson

"Tilda Swinton feels ‘collateral damage’ of Doctor Strange ‘whitewashing’ controversy"
https://www.scmp.com/culture/film-tv/article/2027800/tilda-swinton-feels-collateral-damage-doctor-strange-whitewashing

”Sir Ben Kingsley: Trevor Slattery Could be The Mandarin After All”
https://www.ign.com/articles/2014/08/27/sir-ben-kingsley-trevor-slattery-could-be-the-mandarin-after-all

宇野維正の「なぜ日本では世界的ヒットのアメコミ映画が当たらないのか?」の、事実誤認について。

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 とあるインタビューを読んだ。

https://www.sbbit.jp/article/cont1/36447

まず、冒頭部分の「映画・音楽ジャーナリストでアメコミ映画にも詳しい宇野維正氏にぶつけてみた」というくだりで、ひどく驚いた。この人が、これまでアメコミについて書いたり話したりしてきたことは、おおむね変な内容だと考えていたので、世間ではいつの間にそんなことになっていたのかと、正直、戸惑ったのだ。それで、つい目を通してしまったわけだが、案の定、間違いだらけの記事だった。もちろん、映画というのは、基本誰がどのように語っても良いものではあるとはいえ、正しくない知識を前提に語っても意味はないし、第一それは単なるデマである。以下、気になった点の中から、いくつかピックアップしてみる。

 

「中国や韓国で日本に比べてMCUが好調なのは、事実上、両国がリアルタイムでその始まりから共有できたはじめてのグローバルポップカルチャーだったからです。それ以前のグローバルポップカルチャーとして、たとえば70年代の『スター・ウォーズ』シリーズなどはありましたが、当時の中国や韓国の政治状況からしてリアルタイムの共有はできませんでした。韓国の場合、たとえばポール・マッカートニーのような世界的ポップスターですら2015年に初公演がようやく実現したくらいですからね。50年以上前にビートルズの武道館公演があった日本とは、欧米ポップカルチャー受容の前提から違うわけです」(宇野氏)

 まるで、韓国は、ビートルズも知らなかったような連中だから、物珍しさで受けているのだろう、と言わんばかりで、平然と他国の文化を貶める態度には呆れてしまうのだが、そもそもこれは「事実」でも何でもない。たとえば、MCU以前から『ハリー・ポッター』が韓国では大人気で、映画も第1作の『ハリー・ポッターと賢者の石』の時点で100万人以上を動員して、その年の外国映画としては第2位の興行成績を記録しているのである。他に『ロード・オブ・ザ・リング』なども第1作から普通に大ヒットしている。もっとデータをしっかりと調べるべきだろう。

「日本は『スター・ウォーズ』というグローバルポップカルチャーに40年以上の蓄積がありますし、国内にもオタクカルチャーなどが十分に育っています。しかし中国や韓国には、『トランスフォーマー』や『ワイルド・スピード』のようにシリーズの途中から人気が出たシリーズはありましたけど、その発展とともに国内でファンダムが形成されていくようなシリーズがMCU までなかった。そりゃあものすごい勢いで吸収しますよね。だから正確に言うと、『日本だけがヒットしていない』のではなく、今の中国や韓国がある種の躁状態なんです」(宇野氏)

躁状態」とは、ずいぶんと他国の文化状況を馬鹿にした表現である。韓国は、MCUの撮影スタッフを二度も招聘している(『アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン』『ブラックパンサー』)し、MCU側も、テーマパーク「マーベルエクスペリエンス」をアジアではじめてオープンするなど力を入れてきた。そもそも、MCUの第1作『アイアンマン』の時点で、韓国は日本の約3倍の興行収入を上げており、それから10年以上の積み重ねがあったわけである。「躁状態」と形容するには、ずいぶんと長く定着しているではないか。

 

「まず大前提として、海外、特にアメリカにおける“ヒーローもの”というのは現実社会のアナロジー(類推)です。その時代の社会で起きていることを反映した、ひとつの神話化のプロセスが、アメコミヒーローの物語であると。当然、ギリシャ神話やシェイクスピアの影響も受けている。神話上の英雄(ヒーロー)なので、ほとんどの作品において、その主人公は成熟した“大人”です。

 ところが、日本において“悪をやっつける”ヒーローものの主人公は、多くが少年です。『機動戦士ガンダム』『ドラゴンボール』『名探偵コナン』『新世紀エヴァンゲリオン』、すべてそうですよね。日本以外の海外では、“少年や少女がヒーロー”というのはかなり異例なのです。でも、日本人はそれにずっと慣れてきました」(宇野氏)

  なんとも浅薄な日米文化比較論であるし、そもそも事実誤認である。宇野維正は、アメリカのヒーローは、ほぼ成熟した大人だと断定しているが、最近映像化された作品に限っても、『アンブレラ・アカデミー』『タイタンズ』『マーベル ランナウェイズ』など、各配信サイトがティーンが主役のヒーロードラマを目玉にしているし、そもそも、つい最近もワーナーが『シャザム!』を公開したばかりではないか。もし、宇野維正が『シャザム!』の原作コミックが『スーパーマン』や『バットマン』と並ぶ長寿シリーズであることを理解していれば、少年や少女のヒーローが「異例」などとは、とても言えなかったのではないか。

「だから日本人は『バットマン』にしろ『アイアンマン』にしろ、『いい大人がヒーローなんて』と見くびってきた。アメコミヒーロー映画が長らく受け入れられなかった背景のひとつだと思います」(宇野氏)

 これも事実ではない。『ウルトラマン』のハヤタ隊員も、『仮面ライダー』の本郷猛も、『秘密戦隊ゴレンジャー』の海城剛も大人だった。最近の特撮番組は、出演者の若年化(イケメン化)が進んでいるとはいえ、ヒーローを大人が演じる文化は、日本においても確実に定着している。海外作品に目を向けても、ドラマの『スーパーマン』や『超人ハルク』などが日本でも高視聴率を取っているし、アメコミ原作ではないが『チャーリーズ・エンジェル』や『ナイトライダー』といったヒーロー作品も大人気だった。

 なぜ、こんな無残な勘違いをしているのかと言えば、メディアの違いによって作品の成立過程も客層も異なってくるという点を完全に見落としているからだろう。彼が、日本のヒーロー物の例として挙げた作品を読み直してみてほしい。全てアニメ作品なのだ。アメリカだってアニメシリーズなら『ティーン・タイタンズ』『パワーパフガールズ』『ヤング・ジャスティス』『ヴォルトロン』など、子供が主役のヒーロー番組はたくさんある。もともと『スパイダーマン』にしても、実写化されるはるか前からアニメで人気者だったわけだ。それを日本とアメリカの違いなどと言い出すから滑稽なことになる。

 おそらく、宇野維正にしても、こうした幼稚な日米文化比較論を自分で思いついたわけではないのだろう。この手の話はずっと前からあり(どれくらい古いかと言うと、宮崎駿が1980年代に指摘していたりする)おそらくネットか何かで見かけて、そのまま鵜呑みにしたのだと思われる。もし、彼がほんの数分でも自分の頭で考えていれば、「あれ、ウルトラマンって大人のヒーローだったよな?」とか、いくらなんでも気がついたのではないだろうか。

しかし、さらに数年前の状況を思い出して気づいた。まだMCUが現在に連なるシリーズとして製作されていなかった頃、2002年・2004年・2007年に三部作として公開されたアメコミ原作の『スパイダーマン』は日本で大ヒットしたはずだ。調べてみると興収は75億円、67億円、71.2億円。現在のMCUのどの作品よりもヒットしている。(引用者注:ここまで聞き手の文章)
「それは、アメコミヒーローのなかで『スパイダーマン』の主人公ピーター・パーカーが数少ない10代の“少年”だからです。日本人に受け入れられやすかったんですね。

 どうして『スパイダーマン』が、あれだけヒットしたのか考える上で、当時の興行状況が「洋高邦低」だった点を見逃すことは出来ない。トップは、『ハリー・ポッターと秘密の部屋』の180億円で、75億円を稼いだ『スパイダーマン』でもベスト3にすら入っていないのだ(ちなみに、この頃の『名探偵コナン』は、ギリギリ10位に入る程度だった)。子供が主役だからヒットした、などと呑気なことを言ってるだけでは、こうした状況は見えてこない。映画をめぐる環境自体が大きく変化していることを踏まえる必要がある。

 もっと言うと、その三部作の頃のピーターはクラスの体育会系の生徒からいじめられていましたが、MCUの流れを汲む2017年公開の『スパイダーマン:ホームカミング』のピーターは、そんなキャラクターではありません。さらに2018年公開のCGアニメ『スパイダーマン: スパイダーバース』の主人公 マイルス・モラレスになると、むしろイケてるティーンです。これが何を意味するかというと、アメコミカルチャーがオタク文化ではなくなり、娯楽のメインストリームになったということなんです」(宇野氏)


  マイルス・モラレスが「イケてるティーン」とは? 新しい学校には馴染めないし、可愛い女の子ともうまく付き合えないし、何より深い孤独を抱えた少年だ。ヒップホップとスニーカーが好きとか、そういう風俗的な面だけを見て判断しているのだろうか。
 トム・ホランド演じるピーター・パーカーにしても、じゅうぶんオタク的に描かれていないだろうか。サイエンススクールに通っているし、クラブ活動は文化系の学力テスト部だし、親友はスターウォーズオタクだし、パーティでは浮いているし、好きなものを語らせると早口になるし(笑)

 主役が「イケてるティーン」だと、アメコミカルチャーがオタク文化ではなくなるというロジックも意味不明である(主役が大富豪の『バットマン』はセレブ向けのマンガなのか?)。そもそも、全世界で8億ドルを稼いだ『スパイダーマン』第1作の時点では「娯楽のメインストリーム」ではなかったかのような認識が異常だし、よりにもよって『スパイダーマン:スパイダーバース』のようにコミックマニア向けのネタが満載の映画を指して、オタク文化じゃないと言い切っているのを読むと、はたして自分は宇野維正と同じ映画を見たのかと不安にかられさえする。

 

「もういい加減、アメコミやSF映画を、サブカル的・オタク的な文脈から解き放たなきゃいけない。僕は常々そう思っているんです」(宇野氏)

 むしろ、宇野維正が向かい合うべきなのは、アメリカのメインカルチャーにおいて、オタク文化が分かちがたい存在感を示しているという事実だろう。ケンドリック・ラマーが『ブラックパンサー』に曲を提供したり、ドナルド・グローヴァーがマイルズ・モラレスを吹き替えたりしている現状で、こういう事を言い出すのは、かなり異様に映る。いやもちろん、解き放ちたければ勝手にやってくれて構わないのだが、彼の、オタク的な文脈以外で語りたいという言葉は、残念ながら「自分はオタク的な知識はないから、それ以外のことしか書けません」という言い訳にしか、今のところは聞こえない。