cinemania 映画の記録

cinemania’s diary

小野寺系はなぜ映画評論家と呼ぶに値しないのか――アメコミ、アート、アニメ、そして映画

 今回も前置きは抜きにして始めるが、小野寺系なる人の映画評なるものは本当に酷い。正直ここまで駄目だとは思わなかった。例えば、『ニンジャ・バットマン』に関する雑文である。本人はTwitterで「原作コミックやノーラン版映画との比較を通し、内包するテーマを考察します*1」などと宣伝していたが、まるでそんな文章になっていない。中身を少しだけ見てみよう。

フランク・ミラーなど、複数のアーティストによってシリーズが存続し、進化していくなかで、凶悪犯罪の狂気と戦うバットマンが、じつは狂気を持ったヴィランたちを反射する鏡像的な存在であるということも描かれた。『バットマンアーカムアサイラム』では、もはやサイコロジカル・ホラーとして描かれているように、読者をも狂気のなかに引き込んでいくという、コミックの限界を探るように奥深い地点へとフォーカスしていく作品も出てきた。
https://realsound.jp/tech/2018/06/post-211616.html

 これ、コミックをろくに読んでいない人間が、受け売りの知識で書いていることが見え見えなんですよね。フランク・ミラーという有名な名前をひとり、『アーカムアサイラム』という有名な作品をひとつ出しただけで、他の言及は一切ない。その内容も「狂気」という言葉をくりかえすばかりで、曖昧なイメージしか語っていない。たぶん何かの解説書か誰かのブログでも読んで、わかった気になっているのだろう。ほぼ確実に、小野寺系は、ジェフ・ジョンズやスコット・スナイダーやトム・キングといった、最近の作家たちによる『バットマン』シリーズを読んではいないし、名前すら聞いたことがないのかもしれない。ちなみに、『アーカムアサイラム』の邦訳は2000年、ミラーの代表作である『ダークナイト・リターンズ』は1998年に邦訳の初版が出ているわけで、おそらく21世紀に入ってからの『バットマン』原作の動向については、特に知りたいとも思っていなさそうだ。

 このように、一見もっともらしいが、有名な固有名詞をいくつか配置しただけで、さしたる分析もおこなわず、情報の参照元も示さずに、そもそも情報にきちんと当たらないまま、ボンヤリと全体を俯瞰したようなふりをするというのが、小野寺系の典型的な手口なのである。言葉を変えれば、これは「博識な俺」を演出する以上の意味を読み取る必要のない文章である。

 DCコミックスで連載されたコミック『バットマン』は、都市犯罪が急増していた1939年に発表された。両親を犯罪者に殺害され、一生を凶悪犯罪と戦うことに費やすことを望んだ男、ブルース・ウェインは、偶然に部屋に入ってきたコウモリをヒントに、まさにコウモリのような姿で都会の闇に潜み、悪を倒すダークヒーローとなった。このエピソードは、アメリカの作家、エドガー・アラン・ポーの哲学的な代表作『大烏(おおがらす)』に類似していることからも分かるように、自己の内面に迫っていくような哲学的テーマを、『バットマン』は初期から予感させていた。

 簡単に説明するが、バットマンのオリジンは、スパイダーマンなどとは違って、後づけで設定されたものだ。ポーの「大鴉」を連想させるようなシーンが取り入れられたのも、フランク・ミラーの『イヤーワン』からである。それまでは、バットマンがコウモリの格好をしているのは「悪人を怯えさせるため」という即物的な理由づけがされており、そこに自らのトラウマと向かい合うためという「自己の内面に迫っていくような哲学的テーマ」が、明確に盛り込まれたのは、1980年代に入ってからなのだ。*2 いったい、小野寺系は何を根拠にして「初期から予感させていた」と断言しているのだろう? そもそも「初期」の『バットマン』コミックに実際に目を通しているとは、とても思えないのだが*3

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 あるいは『シャザム!』をめぐる雑文を見てみよう。こちらでも、作品の来歴について、さも知っているかのように語っているのだが、『バットマン』と同様に怪しげな記述である。

 先頃、マーベル・コミック原作の実写映画『キャプテン・マーベル』が公開されたが、じつはそれ以前に、「キャプテン・マーベル」という名のヒーローが存在していた。それが本作『シャザム!』のもともとの原作となった、フォーセットコミックスの『キャプテン・マーベル』である。つまり、本作のヒーローは、もともとキャプテン・マーベルという名前なのである。

 だがコミック『キャプテン・マーベル』は、DCコミックスから「スーパーマンの盗作だ」として訴えられ、その権利はやがてDCに買い取られることになる。その際に、ライバルのマーベル・コミック社と名称が重なることを避け、変身するときのかけ声「シャザム」をタイトルにしたという経緯があるのだ。本作では、それすらもネタとされていて、けっして「キャプテン・マーベル」とは呼ばずに、いろんな名前でヒーローのことを呼ぶ場面が何度もある。

 以前、日本でもアメリカのTVアニメ版『シャザム』が放送されていた。その頃、ヒーローのキャプテン・マーベルは「シャザム!」と叫ぶとキャプテン・マーベルに変身し、その弟分のキャプテン・マーベル・ジュニアは「キャプテン・マーベル!」と叫ぶとキャプテン・マーベル・ジュニアに変身するという、ひどくややこしい設定だった。それを考えても、混乱を呼ぶ「キャプテン・マーベル」という呼称が消えたことは、あらゆる意味で妥当なところだろう。
https://realsound.jp/movie/2019/04/post-351265.html

 非常にもっともらしく語っているが、この説明は、いろいろといい加減である。ちなみに、日本語版Wikipediaの「キャプテン・マーベル (DCコミックス)」には、以下のような記述がある。

なお、『キャプテン・マーベル』と『マーベル・ファミリー』ともに「スーパーマンの盗作」とDCコミックスから訴えられており、1950年代には売り上げが落ち廃刊となっている。DCが版権を取得したのは1970年代であり、この時マーベル・コミックが社名などでマーベルを商標登録していたため、『キャプテン・マーベル』の使用を避け『Shazam!』に改題された。2011年より開始したDCコミックスのリニューアル展開New52ではヒーローの名称もShazam!(シャザム)に改められた。
キャプテン・マーベル (DCコミックス) - Wikipedia

 小野寺系が、この箇所を、そもまま鵜呑みにした可能性は高いだろう。リアルサウンドのプロフィール欄には、「映画仙人を目指し、作品に合わせ様々な角度から深く映画を語る」と、恐ろしいまでに厚顔無恥なフレーズが載っているが、小野寺系の言う「深く映画を語る」方法とは、Wikipedia参照元すら示さずに、丸写しにすることなのだろうか。

 原作の『シャザム!』について、正しい知識を得たいという人は、今のところ唯一の日本語版である『シャザム!:魔法の守護者』 (小学館集英社プロダクション)の解説リーフレットを読んでほしい。翻訳者の、内藤真代(SEN)氏が、裁判の細かい経緯や、商標をめぐる複雑な因縁についても、細かく正しく書いているからだ。つまり、小野寺系は、原作に目を通さないまま、こうした雑文を書いていると思われる。(読んでいれば、解説に目を通さないはずがないですよね?) この『魔法の守護者』が、今回の実写映画の原案となっているのは有名な話であり、映画批評家を自称する者であれば、当然レビューを書く上でチェックしておくべき一冊なのだが。*4

 そもそも、作品に少しでも親しんだ経験のある者であれば、主人公の名前が変わるという重大事について、「混乱を呼ぶ「キャプテン・マーベル」という呼称が消えたことは、あらゆる意味で妥当」などと、乱暴なことが言えるのかは、はなはだ疑問であるし、実際、海外のファンコミュニティなどをのぞけば「呼称が消えた」わけではないことは、すぐに把握できるはずである。いったい、何を根拠に「あらゆる意味で」などと言っているのだろう?

(2020年5月追記:原作の『シャザム!』で、キャプテン・マーベルという呼び名が再び使用されることに。*5)小野寺系の「あらゆる意味で妥当」などという浅はかな妄言は、あっさりと否定された。

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 小野寺系が、不正確な事を無責任に書き散らしているのは、何もアメコミに限った事ではない。『ポプテピピック』をめぐる雑文では、現代アートについても、めちゃくちゃな記述がある。

現代美術に決定的な影響を与えたマルセル・デュシャンは、1917年に男性用小便器を横に倒しただけのものを「泉」と名付けて出品しようとした。この、“既存のものに新しい意味を与える行為”は、美術用語で「レディ・メイド」と呼ばれることになった。アンディ・ウォーホルは、その考えをさらに進め、キャンベルスープ缶やマリリン・モンローなど既存のイメージを利用し、大衆文化を美術にとり入れる。ロイ・リキテンスタインやウォーホルのようなアーティストは、このような方法で「ポップアート」を確立させていった。
http://realsound.jp/movie/2018/02/post-159738.html

 有名な話だが、アンディ・ウォーホルが「Campbell's Soup Can」を発表したのは1960年代――より正確には1962年の出来事だ。デュシャンが出展を拒否された1917年から、いきなり45年もすっとばしている。これも、『バットマン』の時と同じで、デュシャンウォーホールという有名な固有名詞を適当に並べてみただけなのだろうが、仮に小野寺系が、現代アート史について、せいぜい高校生程度の知識でも学習していれば、戦前の芸術運動であるダダイズムと戦後のポップアートを無批判に直結させるような真似はとてもできないはずだ。また、そうした教養がなくとも、常識さえ持ち合わせていれば、どんなジャンルであれ、半世紀にわたる変化を無視するのが、いかに無茶か見当がつきそうなものなのだが。他にも、この雑文はアートに対する悲惨な勘違いにあふれており、とても読めたものではない。

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 小野寺系の無知蒙昧ぶりは、こうして具体的に見ていくと明らかなのだが、欠けているのは、何も知識ばかりではない。画面を見て、そこに何が映っているのかを把握する能力も、ちょっと信じられないほどに劣っている。例えば『ラ・ラ・ランド』に関する雑文をチェックしてみよう。

このミュージカル演出にユニークなアクセントを加えているのは、ときおり手持ちのカメラがせわしなく動き、対象に迫ろうとする撮影である。なかでも、ミアのダンスとセバスチャンのピアノ演奏を交互に写すシーンでは、『セッション』のクライマックスでも使われた鮮烈な技法、音楽の展開に合わせたカメラの超高速パン(首振り)が炸裂する。
https://realsound.jp/movie/2017/03/post-4242.html

 あのですね。「ミアのダンスとセバスチャンのピアノ演奏を交互に写すシーン」の、いったいどこが「ミュージカル」なんだろうか。ひょっとして、音が鳴ったり人が踊っていたりすれば、みんなミュージカルだと思いこんでいるのか? ここまでくると、小野寺系そのものよりも、こんな見当外れの文章の校閲すらできない「リアルサウンド」というメディアの見識の無さにも、ただ驚かされるばかりである。

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 あるいは、『メアリと魔女の花』を、ひたすら貶めるだけの大変に下品な雑文の中で、『アルプスの少女ハイジ』について、こんな風に書いている。

アルプスの少女ハイジ』の驚くべきところは、作品をしっかりと見た者なら、目をつぶっても頭のなかで、アルムの山の斜面を登り、ハイジの住む小屋の周りを歩くことができるようなイメージを与えられるところだ。それは、宮崎駿の超人的な空間把握能力による、立体的な画面づくりによるところが大きい。
http://realsound.jp/movie/2017/07/post-91969.html

 これも、徹頭徹尾デタラメである。確かに『ハイジ』は、テレビアニメの世界にレイアウトシステムを導入した先駆的な作品ではあるが、今の目で見ると粗い部分も散見する。小野寺系は、自分はハイジの住む山小屋の周りを、目をつぶってもイメージできると豪語しているようだが、実際のところ、山小屋の大きさ自体(特にシリーズ前半では)きちんと統一されていないのは、本当に「作品をしっかりと見た」人間とっては常識の範疇だろう――DVDなり配信なりで、実際に確かめてみてほしい――。 いったい、小野寺系の脳裏にはどんな映像が浮かんでいるというのだろう?

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 最後に、もうひとつ見逃せないのが、小野寺系の文章に見え隠れする無自覚な差別意識である。ジャッキー・チェンの近作『カンフー・ヨガ』についての雑文を見てみよう。

本作の物語は、アクションシーンの撮影中にジャッキーの頭蓋骨が陥没するという大事故が起きた『サンダーアーム/龍兄虎弟』を含めた「アジアの鷹」シリーズを彷彿とさせる、「宝探し映画」だ。

 えーと。そもそも『カンフー・ヨガ』は、『THE MYTH/神話』の続編で、ジャッキーが考古学者のジャックを演じるシリーズの2作目なんですが――3作目も企画中――なぜ、そんな基本的な情報にさえ触れずに、『サンダーアーム』などという1986年の映画を持ち出すのだろうか。『バットマン』のときもそうだったが、ひょっとすると、小野寺系の知識は1990年代以降ろくに更新されておらず、ここ10年くらいのジャッキー・チェンの国際的な活動について、何も把握していないのかもしれない。まあ、知識がないだけなら、恥ではあっても罪ではない。問題は以下のような、差別意識丸出しの文章をあっけらかんと書いてしまうことだ。

(……)ジャ・ジャンクー監督が『山河ノスタルジア』で問題として描いていたように、古来からの文化を伝える「古い中国」と、西洋的な文化に浸食された「新しい中国」は、かなりの部分で分断されているように思われる。

 そんな西洋と東洋の価値観を結び付けるのが、ジャッキー・チェンという存在ではないだろうか。
彼の内にある「カンフー」、そしてその魅力を世界に発信する映画という表現方法のなかで、画面に映えるよう美しく、ユーモアを多分に含みながら見せるという技術の蓄積は、まさに西洋と東洋との出会いであり、無形の世界的財産である。
 本作は宝を探す映画だが、「本当の宝」として描かれているのは、ジャッキーの技術そのものだったのだ。そしてそれは、ブルース・リーなどの先人からもたらされたものでもある。
http://realsound.jp/movie/2017/12/post-143909.html

カンフー・ヨガ』という、中国とインドの合作映画で、「西洋と東洋」という対立図式を持ち出してくる的外れぶりも酷いが、それ以上に有り得ないのが、カンフーの技が古い東洋で、映画の技術が新しい西洋という、傲慢な西洋優位主義を隠すことすらしていない点だ。中国には長年にわたる映画の伝統があり、ジャッキー・チェンも、その流れをくむ一人である。はっきりと言っておくが、カンフーという技を、「映画という表現方法のなか」で活かすための技術の蓄積とは、まず東洋の映画人が独自に積み重ねてきたものである。だからこそ、ハリウッドは、『マトリックス』や『キル・ビル』で、香港を代表するアクション監督であるユエン・ウーピンを招いたのだし、今、もっとも注目されているアクション監督である『ジョン・ウィック』シリーズのチャド・スタエルスキなども、香港映画からの影響を公言しているのである。*6

 要するに、小野寺系という人は――彼個人には何ら興味も関心もないので、あくまで文章上からうかがえる姿であるが――「知ったかぶり」の典型であり、聞きかじっただけの知識を適当により合わせて、そこに凡庸な感想を付け足すだけの、適当極まりない文章を、ひたすら量産しているだけの存在だといえる。以前にも紹介した通り、小野寺系は「映画仙人を目指し、作品に合わせ様々な角度から深く映画を語る」などと自称しているのだが、実のところは、何を語らせても、「点」と「点」で物事を把握するのが精一杯で――それすら出来ていないことの方が多いが――歴史というものを、脈略をもった「線」として捉えることができないのだ。彼の頭の中では、アニメ史も、現代アート史も、アジア映画史も、アメコミ史も、全ては、ほんの一部の著名な固有名詞が、ポツポツと置かれているのに過ぎない。そういう空虚な人間が、何か気の利いたことをひねり出そうと悪戦苦闘した挙げ句に、東洋は古くて西洋は新しいといった名誉白人的な差別的言辞が飛び出したりするのだ。

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 さらに言うと、小野寺系の特徴として、『カンフー・ヨガ』が典型だが、映画では特に描かれていない事について、勝手に語っていることが非常に目立つのだ。つい最近も、『ジョジョ・ラビット』の雑文で、映画のテーマを「一人ひとりが、そのとき“やれること”をすれば、悲劇を止めることはできるかもしれないし、事前に戦争を阻止することもできる」と要約しているが、別に、そのようなメッセージは映画のどこにも描かれていなかったのは、宮昌太朗氏が指摘している通りだ。*7 基本的に、小野寺系という人は、映画から意味を読み取るということが不得手な人なのだろう。結果として、他人の作った映画をダシに自分の言いたいことをただ叫んでいるだけというオチで締める雑文が珍しくない。

 まあ、そういう人間でも、なにか面白い感想を思いつく可能性があることまでは、決して否定しませんが。ただし、それは川底から砂金を攫うような作業になるだろう。実際、今回はじめて小野寺系という人物の文章をまとめて読んでみたが、それら全てにツッコミを入れていたら、このブログの分量は3倍以上にはなるはずである。

cinemania.hatenadiary.jp

*1:https://twitter.com/kmovie/status/1011167115594747905

*2:詳しい経緯については、『バットマン:イヤーワン/イヤーツー』(ヴィレッジブックス)の解説リーフレットなどを参照。

*3:小野寺系の個人ブログでは、「もともとコミック版「バットマン」着想のモデルになったのは、エドガー・アラン・ポーの、アメリカ文学の最高傑作のひとつに位置づけられている、謎めいた物語詩「大鴉(The Raven)」である。」とまで断言してしまっているが、これも、どのような根拠で書いているのだろうか。クリエイターのボブ・ケインもビル・フィンガーも、そんな発言はしていないはずだが。 http://k-onodera.net/?p=61

*4:筆者も、シャザム!/キャプテン・マーベルには詳しいわけではないので、他人の受け売りで批判するのは遠慮し、参考資料を提示するにとどめておく(ネットに勝手に転載するのも良くないですし)。なお、内藤氏は、映画『シャザム!』のパンフレットにも、詳細な解説を寄稿されています。

*5:原作『シャザム!』のライターであり、映画版のプロデューサーも務めているジェフ・ジョンズが、名前が変更される前の世界からやってきたキャラクターが、主人公のことをキャプテン・マーベルと呼ぶこと、いずれは本人もそう名乗ると認めている。Shazam Will Soon Regain His Captain Marvel Name - Sort Of

*6:『ジョン・ウィック』を生んだアクション集団!チーム「87イレブン」道場に行ってきた!|シネマトゥデイ

*7:宮昌太朗氏のTwitterより。 https://twitter.com/camiroi/status/1227607709781909504 https://twitter.com/camiroi/status/1227614543628521472

マイケル・ムーアはクリント・イーストウッドの『アメリカン・スナイパー』を、どのように称賛したか。

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 どうやら、マイケル・ムーア監督がクリント・イーストウッド監督の『アメリカン・スナイパー』を徹底的に否定しているとでも言わんばかりのデマを流し続けている方がいるらしいので、公開当時のインタビューから、該当する箇所を抜粋して紹介しておこう。(自分用に訳しておいたものを転載するだけですが)

 この映画を観た人の多くは共和党の支持者だろうけど、別にお花畑に住んでいるわけじゃない。家族がいて隣人がいる、戦場からズタボロになって帰ってきた人たちのことを知っている。僕たちには、PTSDという難問がある。戦争から生還した兵士たちの扱いについて、メンタル面での課題を抱えているんだ。僕はこの映画を二回観に行ったけれど、終幕では映画館は静まり返っていたよ。ブラッドリー・クーパーがアラブ人スナイパーのムスタファを倒す場面でも、歓声なんてあがらなかった。信じてほしいんだけど、僕は自分とは政治的な立場が異なる観客たちと一緒だったんだ。彼らはとても衝撃を受けていて、悲しそうに劇場を立ち去ったよ。映画の中の主要な登場人物たちは、最後には、誰もが戦争に傷つけられるか戦死してしまうか、どちらかなんだ。決して美化しているわけじゃない。観客たちは、たぶん意気揚々と映画館にまで足を運んだんだろうけど、帰り道はそうとはいかなかったんだ。

 僕は、公開された次の日に観に行ったんだ。上映していたのは全国で4箇所だけだった。(訳注:『アメリカン・スナイパー』は、まず都市部で限定公開され、その後拡大された) 僕はクリント・イーストウッドが好きだし、この映画を観たかったんだ。率直に言うけど、今年の映画の中では一番の予告編だったし、テレビのCMも最高だった。けれど、ポップコーン売り場からシアターまで行くと「なんてこった! 見てみろよ、グリニッジ・ヴィレッジにいるのに、地元の連中はどこにもいないじゃないか!」(訳注:上映されていない田舎から観客が集まったという意味) 観客の一人に話しかけられたよ。「やあ、君がここにいるなんて嬉しいな」 僕の映画を褒めてくれたよ。

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 とにかく、僕はこの観客と一緒で、とても幸せだったな。なぜなら、彼らはとても感銘を受けていたからね。涙を流していたよ。観客は映画に反応していた。エンド・クレジットは、音楽も入っていなくて、とても陰鬱なものだった。登場人物は、誰もが戦争に疲れて、反戦に転じるか、さもなくば死んでしまうんだ。アメリカの勝利を讃えたりなんかしない。『プライベート・ライアン』 のラストでトム・ハンクスが戦死する場面のように「彼の死は無駄ではなかったのだ」なんて風にはならない。そんな描写は、この映画には存在しないんだよ。気持ちよくさせてはくれない。

――狙撃手への感情(訳注:かつてムーアは、狙撃者は卑怯だと発言している)や、戦争についての政治的な信条は別にして、映画そのものには、何の問題もないと言いたいのですか?

 映画についてはね。君が僕のツイッターをフォローしているのなら説明するまでもないけど、たいていのフィルムメイカーや映画監督というのは、互いの映画を批判しないという不文律を持っているんだよ。よその監督の映画が気に入らなければ黙っておく。もしも気に入ったのであれば、声を上げて人々に観に行くよう促すんだ。だからフィルムメイカー同士で批判し合うってことは滅多にないんだよ。優れた映画を作るのがいかに困難なことか、みんな知っているんだからね。以前、一度だけ、労働者階級の連中が観たら気分を害するような映画について批判したことはあったけどさ。毎日、身を粉にして働いているのに子供にお菓子も買い与えられないような人たちに無駄な出費をさせたくないと思ったんでね。

 それで、最初の二つのツイートでは映画について特に触れなかった。でも、どうしても140字以上書きたくなったからフェイスブックにしたんだよ。
「『アメリカン・スナイパー』については触れないが、これだけは言っておきたい。ブラッドリー・クーパーは、今年最高の演技を見せた。脱帽した。なんという変身ぶり……あなたはそれがブラッドリー・クーパーだとは気づかないだろう」

 そう、優れた俳優の証だ。この映画について、僕が最初に発したポジティブなコメントだね。もうひとつ言っておくと、技術的な面では、とても精巧に造られた映画だよ。ラストに音楽も流さずに暗転したままというのは、とても大胆な選択だった。暗くて静謐だ。物語に関しては、クリントは昔ながらの西部劇のようにしたかったんだと思っている。きわめてシンプルに、複雑でないやり方でね。例えば、ツインタワーが崩れ落ちると、すぐに兵士たちが呼び出されてイラクへ出撃するように。*1

 この映画のストーリー進行には問題があって、観客が混乱しているように見えたのは、そのためなんじゃないかな。『アメリカン・スナイパー』は、イラクについて、五、六年ないし、三、四回の出動だけで捉えようとしている。でもさ、同じ男が、そんなに長いこと同じ街にいるなんてことがありえるのかね? 古い西部劇みたいで奇妙だった。まるでB級映画じゃないか。それと、歴史的に間違っている点もあるけれど、そこに触れるつもりはないよ。これはあくまでも映画であって、ドキュメンタリーを見せられているわけじゃないからね。

(自分で運営する映画館で『アメリカン・スナイパー』を上映することについて)『トランスフォーマー』の5作目をかけるつもりはないけど、これはつまらない映画なんかじゃないからね。実際、クリント・イーストウッドは、この映画には、反戦的な感情を強くこめたと言ってるんだ。なあ、聞かせてくれないかな。この映画を観たあとで 「これは、若者を軍に勧誘するための、とんでもない徴兵目的の映画だね」って思うものかな?

 クリント・イーストウッドは、右翼主義の信奉者というわけじゃないんだよ。政治的には複雑な立場だし、どちらかと言えば、彼はリバタリアンだよね。あえて区分するなら、彼は自由主義を信じているのかな。僕は、彼が「合衆国は世界の警察になるべきだ」なんて考えていないと思っているよ。まあ、彼を取り巻く連中は戦争を批判しているようには見えないけどね。(映画で描かれた)クリス・カイルを見ても、「こいつは変だな、さっさと頭の中から追い出してしまおう」って思ってるのかもしれないな。

 クリスが自分に嘘をついていることを、みんな知っているんだ。 「自分は価値のあることをしている」 と彼は言い続けなければならない。なぜなら、彼はおそらく心の底では間違っていると理解しているからだ。唯一の仕事はアメリカを守ることなのに、何の関係もないんだよ。そして、僕らの税金は、そこに注ぎ込まれている。攻撃を受けても守ってもらえるんだってね。別に僕らが脅かされたわけじゃないのに。イラクは攻撃してこなかったし、そのつもりもなかったんだろう。

 映画の中で、PTSDが描かれたことを喜んでいるよ。クリントは、兵士や帰還兵のことを画一的に表現するようなことはしていないんだ。彼らにはいろいろなことがあったから。戦争がきっかけでPTSDの問題に取り組もうという動きが出てきたのは知っている。この映画は、帰還兵の社会復帰を手助けしたいという気持ちを呼び起こすことになるだろうね。PTSDに関心がある人々にとっては有益な映画だったと思う。感情的には、そうであってほしいな。でも、もっと深いレベルの話をすると、この映画を観たアメリカ人には、もう二度と、こんなことは起こすべきではないと考えてほしい。こんなことは決して繰り返しちゃいけないんだ。

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*1:実際の映画では、主人公に出撃命令が下るのは、結婚披露パーティーのさなかであり、同時多発テロのシーンとは直接つながっておらず、関連性も強調されてはいない