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cinemania’s diary

クリント・イーストウッドは日本で高く評価されすぎているという説は本当なのか――荻野洋一『リチャード・ジュエル』論の問題点をめぐって

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 荻野洋一のコラム「『リチャード・ジュエル』が誘う終わりのない問い イーストウッドの“悪意”を受け考えるべきこと」を読んだ。批判の内容そのものにも、あまり感心しなかったのであるが、それはおいおい語るとして、それ以前に困ったのは、冒頭の以下のような部分である。

 (……)ところが、ここ日本ではイーストウッド映画は無抵抗に支持されすぎた感がある。参考として『キネマ旬報』の年間ベストテンを例に取ると、1993年に『許されざる者』が1位を獲得したのを契機として、軒並みベストテンの上位を飾り、日本で最も人気のある映画監督のひとりとなった。『マディソン郡の橋』3位、『スペース カウボーイ』1位、『ミスティック・リバー』1位、『ミリオンダラー・ベイビー』1位、『父親たちの星条旗』1位、『硫黄島からの手紙』2位、『グラン・トリノ』1位、『チェンジリング』3位、『 インビクタス/負けざる者たち』2位、『ヒア アフター』8位、『J・エドガー』9位、『ジャージー・ボーイズ』1位、『アメリカン・スナイパー』2位、『ハドソン川の奇跡』1位、『15時17分、パリ行き』6位、そして現在販売中の最新ベストテンで『運び屋』4位。壮観だが、いくらなんでも出来過ぎではないか。
 ここまで一貫して絶賛が持続するのには、違和感を拭えない。私たち日本の観客はイーストウッド映画がもたらす問題点を看過したまま、絶賛装置をかんたんに作動させてはいまいか。そのあたりをめぐり、今回の新作『リチャード・ジュエル』は少なくない材料を提供してくれているように思う。


『リチャード・ジュエル』が誘う終わりのない問い イーストウッドの“悪意”を受け考えるべきこと|Real Sound|リアルサウンド 映画部

「絶賛装置」というよく判らない言葉は――荻野自作の造語なのかどうかはさておき――イーストウッドに高評価を与えるものは、物事をよく考えずマシーンのように自動的に票を投じているに過ぎないという、一方的な決めつけを表現しているようである。そのために、荻野は、「キネマ旬報」という、それなりに権威があるとは言えマイナーな映画雑誌のベストテン企画の結果に過ぎないものを使って、「私たち日本の観客」という、途方もなく大きな主語で語ろうとしているのである。

 しかし、わざわざ指摘するまでもないが、日本の映画雑誌は、なにも「キネマ旬報」だけではない。先ほど休刊した「映画秘宝」や、老舗の「映画芸術」、「スクリーン」などのファン雑誌や、「DVD&動画配信でーた」のようなカタログ雑誌などを含めれば、それなりの数は出ているのだし、映画賞も数多く存在している。それらの中でクリント・イーストウッドが、作品を出せば「機械的」に高い評価を得てきているかと言えば、決してそんなことはないのである。

 具体例を上げてみよう。『映画秘宝』の創刊1997年度から休刊2019年度までのベスト企画にランク入りしたイーストウッド作品は以下の通り。

『目撃』24位
スペース カウボーイ』14位
ミリオンダラー・ベイビー』13位
硫黄島からの手紙』2位
父親たちの星条旗』8位
グラン・トリノ』2位
インビクタス/負けざる者たち』21位
ジャージー・ボーイズ』14位
アメリカン・スナイパー』11位
『運び屋』11位
映画秘宝 - Wikipedia

 もし「キネマ旬報」の代わりに、このリストを見せられとしたら、果たして荻野の「ここ日本ではイーストウッド映画は無抵抗に支持されすぎた感がある。」という意見に首肯することはできるだろうか。むしろ、そのキャリアからすれば順当といったところではないか。(ちなみに選外となったのは『真夜中のサバナ』『トゥルー・クライム』『ブラッド・ワーク』『ミスティック・リバー』『ヒア アフター』『チェンジリング』『J・エドガー』『人生の特等席』『ハドソン川の奇跡』『15時17分、パリ行き』)

 また、日本アカデミー賞で、 最優秀外国作品賞を獲ったのは、『ミリオンダラー・ベイビー』『父親たちの星条旗』 『硫黄島からの手紙』『グラン・トリノ』『アメリカン・スナイパー』『ハドソン川の奇跡』の6本である。短期間にこれだけ受賞しているのは確かに壮観ではあるし、公式サイトにも「21世紀に入ってからクリント・イーストウッド監督が多く受賞しています。」と、わざわざ特記されているほどなのだが、逆に言うと20世紀には、ここまでの高い評価を得ていなかったことになる。*1

 毎日映画コンクール外国映画ベストワン賞では、『許されざる者』『スペース カウボーイ』『ミスティック・リバー』『父親たちの星条旗』『グラン・トリノ』『ハドソン川の奇跡』の6本。こちらも多いとは言えるが、「絶賛装置をかんたんに作動させ」たと揶揄されるほどの結果でもないだろう。*2

 さて、荻野は「ここ日本では」と、イーストウッドの「絶賛装置」による高評価は日本独自のものであるという前提に立っているのだが、はたしてそうだろうか。

 例えば、アメリカではどうか。『許されざる者』と『ミリオンダラー・ベイビー』はアカデミー賞作品部門と監督部門をそれぞれダブル受賞しているし、『硫黄島からの手紙』と『ミスティック・リバー』では監督賞にノミネートされている。アカデミー賞以外にも、『アメリカン・スナイパー』のナショナル・ボード・オブ・レビュー監督部門など、さまざまな賞を受賞している。*3 映画批評集計サイトのロッテントマトを見てみると、フレッシュ判定を受けているのは、2000年以降では、『スペース カウボーイ』『ミスティック・リバー』『ミリオンダラー・ベイビー』『父親たちの星条旗』 『硫黄島からの手紙』『チェンジリング』『グラン・トリノ』『インビクタス』『アメリカン・スナイパー』『ハドソン川の奇跡』『リチャード・ジュエル』の11本である。*4

 あるいはフランスではどうか。荻野も日本版の編集に関わっていたことのある高名な映画雑誌「カイエ・デュ・シネマ」のベストテンでは以下のようになっている。

『バード』5位
許されざる者』1位
パーフェクト・ワールド』1位
マディソン郡の橋』4位
真夜中のサバナ』3位
トゥルー・クライム』6位
スペース カウボーイ』9位
父親たちの星条旗』10位
グラン・トリノ』4位
『運び屋』8位
カイエ・デュ・シネマ 歴代トップ10 完全版(1951~2019)!!!|Knights of Odessa|note

 こうして具体的に比較していくと、荻野の「ここ日本ではイーストウッド映画は無抵抗に支持されすぎた感がある」という感覚が、かなり当てにならないものであることがわかるだろう。単に「キネマ旬報」が例外的なのである。

 イーストウッドには、アメリカにおける批評的なピークとして、アカデミー賞を得た『許されざる者』と『ミリオンダラー・ベイビー』の二本があり、日本での高評価も、これらを契機にはじまっていると見て良い。荻野も指摘するように「キネマ旬報」のベストテンにランクインするのは『許されざる者』からであるし、日本アカデミー賞の常連となったのは『ミリオンダラー・ベイビー』以降に過ぎないからである。

 もっと言えば、数多くの投票者によって選ばれる、お祭り的な企画において、クリント・イーストウッドという名前が、ある種の安全牌として機能してきたということだろう。煩雑になるので具体的には書かないが、全投票内容が公表される「キネマ旬報」のベストテンをチェックしていくと、必ずしもイーストウッドに高得点を投じている投票者ばかりではないからである。一人が1位に入れた作品と十人が10位に入れた映画は同点になる仕組みにおいて、まんべんなく点数を集めた作品ほど上位に行きやすい仕組みになっているのだ。それを荻野のように「一貫して絶賛が持続する」と断言してしまって良いものなのか。

 もちろん、イーストウッド監督が日本で人気が高いという事実そのものを否定するつもりはまったくない。関連図書の多さなどを見ても、現役の作家としてはもっとも熱心に論じられている映画作家の一人であることは間違いないからである。しかし、アメリカやフランスに比べても極端に差があるとも思えず、むしろ、歩調を合わせて評価を高めてきたと捉えるのが妥当ではないだろうか。むしろ、逆に、「イーストウッドは日本では過剰に高く評価されている」という風評が印象論だけで語られてきたと言うべきなのかもしれない。*5

***

 さて、ここで指摘しておきたいのは、この荻野洋一のような文章が、近頃とみに目立つということである。たとえば、荻野のエントリーに便乗して、小野寺系なる人物が、「このような視点を持たない、やみくもな絶賛が幅を利かせてきたことが、いままでの問題だったと思う。*6」などとTwitterで発言しているし――この人が去年書いた『インビクタス』の紹介記事ほど、イーストウッド映画への「やみくもな絶賛」を読んだ事がない*7のだが、原稿料が発生すると考え方が変わるのだろうか――また、当ブログで以前に触れたが、町山広美も「キネマ旬報」の『リチャード・ジュエル』特集に、イーストウッドの高評価に異議を申し立てるという趣旨のコラムを寄稿している。*8(なので、キネ旬は別に、絶賛ばかり載せているというわけでもない)

 イーストウッドの映画をただ批判するのではなく、イーストウッドの高評価は盲目的であるという前提をまず立てて、それを否定するという仕草が、妙に流行っているらしい。自分は他人と違って、より高い視点で映画を正しく見ているのだと言わんばかりの奇妙なアピールが。

 これは直接的には、『リチャード・ジュエル』において、実在の女性記者の描き方が差別的であるという、わかりやすい批判ポイントが生じたことに乗じての動きなわけであるが、しかし、この点については、すでに町山智浩や、(後述するが)RHYMESTER 宇多丸といったイーストウッドに好意的な評者も批判的に言及しており*9、荻野たちが自分でアピールしているほど、彼らの主張は、時流に反しているわけでも、画期的な視点があるわけでもない。むしろ映画のボイコット運動まで起きた*10という世情におもねっているとさえ言える。

 実際、荻野の文章を読んで見ればわかるが、冒頭の「キネマ旬報」に関するハッタリをのぞくと、彼の批判は、タイトルにもあるイーストウッドの「悪意」という印象論(これも後述)のほかには、女性描写とホモセクシャル描写への嫌悪感を示すにとどまっており、実に凡庸なものと言わざるを得ない。いや別に、凡庸な感想が悪いわけでもないのだが、他人の意見を機械的な反応だと貶めるほどの価値があるようにはとても思えない。

 おそらく、荻野たちが言う「イーストウッドの問題点」なるものは、「リベラルな価値観にはそぐわない点がある」という一点で、ほぼ説明がついてしまうようだ。そして、荻野はコラムの最後で、「映画ファンとはかくも愚かで、現実に目をつぶり、美学に耽溺してしまう人種なのかと疑惑をみずからに突きつけつつ」と自虐を装いつつ、自分とは異なりイーストウッドの支持者は、社会的な問題を捨象することによって、高評価を与えているのだと決めつけてみせるのだが、しかし、荻野の文章をどこを読んでみても、そうした評論があるという具体的な指摘や検証があるわけではない。結論ありきの思い込みで書かれた文章にありがちな欠落である。

 それは「看過」されてきたどころか、イーストウッドレーガン政権を支持していた頃には、すでにくりかえし指摘されていたことではなかったか。イーストウッドをめぐる言説の進歩とは、『ダーティハリー』に代表されるタカ派大衆迎合的な娯楽作家というイメージからの脱却の過程であったと言ってよいからである。*11 その意味で、いまごろに荻野たちのような言説が目立ってきたとすれば、それは単純に振り子が揺れ戻っているようなイメージで考えるべき現象なのかもしれない。

 そもそも、監督に専念することの多くなった近年のイーストウッド監督は、『父親たちの星条旗』『J・エドガー』『インビクタス』『アメリカン・スナイパー』など、きわめて政治色の強い作品を多く作っているのであり、これらは、まさにメッセージ性をめぐって賛否を論じられることが多い。例えば、『アメリカン・スナイパー』をめぐる論争は、映画の内容が好戦的か反戦的かという、まさに社会的な面をめぐって争われた*12のは、アメリカでも日本でも同じだったのではないか。

 日本におけるイーストウッドの高評価は、美学な点に由来し社会的な批判を看過することで成り立っているとする荻野の図式は、蓮實重彦らがイーストウッドを熱心に論じていた80~90年代あたりのイメージを今なお引きずっているように見え、いかにも「元「カイエ・デュ・シネマ・ジャポン」編集委員」という肩書にふさわしいのだろう。しかし残念なことに、今やイーストウッドは、社会的な題材を好んで扱う映画監督であるというのが平均的な認識なのではないかと思う。

***

 せっかくなので、最後に荻野の『リチャード・ジュエル』批判を、もう少しだけ具体的に見ていこう。荻野は主人公が単純な善人としては描かれていない点を指して、次のように書く。

 しかし、彼が「普通の男」だと思える要素は、アメリカ南部の住人でなければ通用しない点も多い。彼の趣味は狩りだというが、それにしては重装備の銃器類や刃物が自室に保管されている。軍事おたく、セキュリティおたくの様相を呈し、観客の中の「普通」という概念を容赦なく揺さぶるだろう。

 事実として彼が本当に爆弾を発見した勇気ある警備員であることは、映画の前半部分でちゃんと描かれている以上、私たち観客が彼を犯人だと疑うことはあり得ない。しかしながら、彼の性質、信条、買い揃えた品々を目撃するにつけ、さらに映画の冒頭で彼が他人のデスク引き出しをいろいろと観察しているところを見るにつけ、それが彼のサービス精神、人の役に立ちたいという善意のものであっても、「これは普通とはほど遠い」「なぜ彼は罠にはまる要素ばかり集めてしまったのか」と問わざるを得ない。このような疑惑の煽り方はいったい何のためになされるのだろう。イーストウッド映画の奇妙な謎、疑問点は、映画の細かい点を頓着しない彼の放埒さに原因を求めるべきなのか。それとも、もっと歪んだ悪意の仕掛けとしてあるのか。


『リチャード・ジュエル』が誘う終わりのない問い イーストウッドの“悪意”を受け考えるべきこと|Real Sound|リアルサウンド 映画部

「疑惑の煽り方」「細かい点を頓着しない」「放埒さ」「歪んだ悪意の仕掛け」と短い間に扇情的な言葉をたたみかけ、いつの間にか「悪意」という言葉で、イーストウッドの制作意図を捏造してみせる点に注目しよう。一見、疑問形を用いることで、断言を周到に避けているようにも見えるが、荻野は次の段落でこう続ける。

悪意の仕掛けといえば、すでに世界中で報道されている同作への批判に触れないわけにはいかない。

 
 間髪入れずに「歪んだ悪意の仕掛け」という仮定が、あたかも既定の事実であるかのように置き換わっている。「奇妙な謎」「問わざるを得ない」と言いつつ、最初から結論は出ているのだ。このように、論理的な分析をいっさい欠いたまま、表層的なレトリックだけでイーストウッドの「悪意」なるものを事実化させていくテクニックは、まあ巧みであると言えなくもない。

 ところで、イーストウッドは、なぜリチャード・ジュエルを一見怪しげな人物として描いたのだろうか? 実話だから、というのが一番の理由ではあるが、たとえば宇多丸は、同じシーンについて、ラジオ番組で次のように語っている。

とはいえ途中ね、FBIの家宅捜索に備えてですね、そのワトソン弁護士が、「お前、銃とか持っている?」「ああ、ジョージアだから持っているよ」「持ってる銃、一応全部出しといて」って言ったら、「お前さ……なに? ゾンビ対策?」みたいな(笑)。


私、ちょっと身につまされるところがありました。「銃、出しといて」って言ったら、「嘘でしょう?」っていう量が出てくる、とかね。あるいはですね、「黙ってろ」って言っているのについ、「あの、本当にオレも法の執行者なんで。捜査、本当に協力しますんで」って。とにかく何か余計なことを言い出す。それで「あっ、その本ね! その本、警察の手口がわかって本当にいい本だよね!」とか言って。その本の、「よりによって……あちゃー!」という感じとか(笑)。


とにかくね、「この男、しょうもなさすぎである」っていうね(笑)。そういうまあ、その軽やかなユーモア感。その人間のダメさっていうのに対する、生あたたかい視線というのかな。それはやっぱりね、イーストウッド映画ならでは。特にイーストウッドの近作のね、たとえば『運び屋』とかにもあった、「このジジイ……」っていう。すごく楽しいあたりだし。あと終盤、喜びを噛みしめながら、同時にハンバーガーを頬張り、噛みしめるっていう(笑)。「かわいい……かわゆいのう!」っていう、本当にいとおしい姿。素晴らしかったですけどね。


宇多丸、『リチャード・ジュエル』を語る!【映画評書き起こし2020.1.31放送】

 ほぼ同じシーンを見ているのに、荻野は「歪んだ悪意」と言い募り、宇多丸は「軽やかなユーモア感」と共感を寄せる。イーストウッドの評価の難しさ、揺れ幅の大きさは、こうした例からもうかがえるだろう。どちらの解釈が正しいのか、という話はあえてしないが、自らの定義する「普通」――アメリカ南部の住人は、そこには含まれないと荻野は断言する――からはみ出す描写に対して「悪意」を読み取るしかない荻野の批評家としての余裕の無い振る舞いは、個人的には非常に興味深いものに映る。荻野は、別の箇所でも「だとするなら、本作を単なる美談として考えるわけにはいかない」と批判しているが、確かにイーストウッドは、荻野が望むような「単なる美談」を作るつもりなど初めから無かったのだろう。

 それと、もうひとつ重要なのは、宇多丸の高評価は、荻野が言うような「イーストウッド映画がもたらす問題点を看過した」せいで生じているわけはないという事である。なぜなら、荻野も批判する女性記者の描写については、宇多丸も「要は現実の女性ジャーナリストの皆さんの活動を阻害しかねない、偏見を助長するステレオタイプなイメージ」と、きわめて直裁的に批判しているからである。

 結局のところ、荻野の見立てとは違って、イーストウッドを評価する者の大半は、「現実に目をつぶり、美学に耽溺してしまう」のではなく、「問題点」とやらを踏まえた上で、なお称賛すべき点を評価しているというだけの話ではないだろうか? もちろん、宇多丸ひとりの例でもって断言するのは性急ではあるが、少なくとも、誰が何をどのようなスタンスで批評しているのかを知るためには、このように具体的に検証していくより他に道はない。「キネマ旬報」でイーストウッドに票を投じた参加者にしても、それぞれの判断基準があるわけであり、順位だけを見て、これは機械的に投票したかのようだと印象操作する荻野の姿勢は、映画批評家としては、なんとも誠実さを欠いた振る舞いであると言わざるを得ない。

【追記】
小野寺系による当ブログをめぐるデマに応答しておきます。 - skyfall 映画の記録