skyfall 映画の記録

cinemania’s diary

「Netflix最強コンテンツ、『ストレンジャー・シングス』が変えたもの」(宇野維正 )で、本当は変わっていないもの。

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 基本的に苦手な人の文章は、なるべく見ないようにしているのだが、『ストレンジャー・シングス 未知の世界』に関するコラムということで、目についてしまった。作品そのものではなく、宣伝についての話だ。

news.yahoo.co.jp

 宇野はまず、1985年が舞台となるシーズン3において、当時コカ・コーラ社が発表して、すぐに市場から消えた新製品「ニュー・コーク」(宇野は”ニューコーク”と表記)が登場することに触れる。Netflixが協力を要請したところ、コカ・コーラ社は期間限定でニュー・コークを復活させ、映画館でCMを上映したという。

映画やドラマの世界では「プロダクトプレイスメント」という、劇中に商品を出す宣伝手法が長年とられてきた。しかし、『ストレンジャー・シングス』の場合はその発想が逆。作品の制作のために要請した協力が、そのまま大規模なタイアップへと発展していった。コカ・コーラ社は「歴史の汚点」であった「ニューコーク」が作品でフィーチャーされることを面白がって、期間限定で「ニューコーク」を34年ぶりに復活させることを決定。『ストレンジャー・シングス』のキャラクターが登場するコマーシャルまで制作して、それを全米の映画館で上映した。

 まず、ここで「発想が逆」と言っているのが、よくわからない。「映画に実在の商品を出すのではなくて、映画の商品が現実に売られていて凄い!」という意味らしいのだが、それって普通のことですよね? 宇野本人も「タイアップ」という用語を使っているように、発想を逆転させるまでもない、昔からある宣伝方法だろう(古い商品の再販という手段そのものは珍しいとしても) また、宇野は、この商品展開をコカ・コーラ社が「面白がって」決めたかのように書いているが、Netflixコカ・コーラ社という世界有数の大企業が、そんな軽いノリでビジネス展開を決めたとも考えづらく、むしろ周到なマーケティング戦略あってのことではないか。

ストレンジャー・シングス』シーズン3が配信されるタイミングで、公式にタイアップした企業はコカ・コーラ社のほか、アパレルではナイキとリーバイスH&M、ファストフードではバーガーキングバスキン・ロビンスサーティーワンアイスクリーム)。他にもマイクロソフトやエピック・ゲームズ(『フォートナイト』)などが、配信に合わせてキャンペーンを行なっている。いずれも単に作品名のロゴを使った商品を発売するのではなく、作品のために制作したキャップやTシャツやスニーカーの市販化、劇中に出てくるお店をそのまま再現しての店舗営業、作品の設定(『ストレンジャー・シングス』ではこの世界とは異なる「逆さまの世界」が描かれている)を模した逆さまのロゴを効果的に使った商品など、作品と企業が一緒になって「遊んでいる」ものばかりだ(ナイキ、リーバイスH&Mなどその一部は日本でも展開されている)。

 これも、『ストレンジャー・シングス』に限らず、よくある普通のタイアップ戦略であるとしか言いようがない。アメリカの事情はよく知らないが、日本でも、街を歩けば、マーベルやゴジラエヴァンゲリオンのグッズは、いくらでも目につくだろう。劇中に登場するアイテムの商品化も、比較的よく見られるタイアップだ。企業ロゴをネタにするのも、先日の『君の名は。』地上波放送で、提供クレジットを入れ替えたジョーク企画があったばかりである。宇野は『ストレンジャー・シングス』の広告戦略を「作品と企業が一緒になって「遊んでいる」ものばかりだ」と称賛しているが、消費者にそう思わせる――親しみをもたせる――ことこそがタイアップ宣伝の要なのは説明するまでもないだろう。

(略)NetflixAmazonプライムやHuluとはじめとする動画ストリーミングサービスの特徴は、ネット局のように広告収入によって成り立っているわけではなく、視聴者が直接契約したサブスクリプションの料金によって収益が支えられていること。ストリーミングサービスが急成長した背景の一つは、「コマーシャルを見なくていい」ことを視聴者が大きなメリットとしてとらえているからだとも言われている。

 しかし、結果として『ストレンジャー・シングス』はNetflixのイメージアップとともに多額の広告収入をもたらし、それを元手に映画館では独自のコマーシャルを上映し(コカ・コーラ)、ここ日本でも地上波で湯水のように『ストレンジャー・シングス』のコマーシャルを流しているわけだ。配信ではコマーシャルが排除されている一方、その外側には『ストレンジャー・シングス』の商品や広告が溢れかえっている。『ストレンジャー・シングス』は、そんなまさにもう一つの「逆さまの世界」も実現させたことになる。

 これまた、意味がわからない。「Netflixは広告を見せないことで視聴者を集めているのに、街では宣伝しまくっていて凄い!」ということらしいが、それって普通のことですよね?(本日2回め) そもそも、番組の放送中にCMを入れること(広告収入の手段)と、その番組自体を外部で宣伝すること(広告展開の方法)は、ぜんぜん別の事象であって、別に何かが逆さまになったわけでもない。CS局だって、オリジナルドラマを制作すれば、CMなしで放送するし、広告くらい打つでしょう。映画だって、上映前の予告編はともかく、本編上映中にCMは流せない――だからこそ「プロダクトプレイスメント」という間接的な広告収入の手段が発達した――が、駅やビルに看板は出す。どれも、昔から当たり前にやっていることであり、別に、「『ストレンジャー・シングス』が変えたもの」というわけではないはずだ。


ストレンジャー・シングス』の世界の重要な用語である”The Upside Down”は、日本語版では基本的に「裏側の世界」と訳されていると思う。宇野は、これを「逆さまの世界」と微妙に言い換えた上で、何か気の利いたことを言おうとしたのだろうが、残念なことに上手くいかなかった。むしろ、既成の訳の通り「裏側の世界」を使えば、もう少し当を得た内容なったのかもしれない。なぜなら、「プロダクトプレイスメント」と「版権ビジネス」も、「広告収入」と「広告展開」も、逆さまと言うよりは、表裏一体に結びついたありきたりな事柄なのだから。



参考URL
マーケティング史に残る失敗か、はたまた戦略的な“投資”か──。 発売即“大炎上”した「ニュー・コーク」の真実
https://www.cocacola.co.jp/stories/newcoke

・『君の名は。』CMで各社のロゴ“入れ替わる” ロッテとソフトバンクサントリー日清食品など
https://www.oricon.co.jp/news/2138939/full/

Netflixのドラマ「ストレンジャー・シングス」は、わくわく感をシーズン3で取り戻した
https://wired.jp/2019/07/07/stranger-things-season-3-review/

ル・モンドの批評家たちを熱狂させた1944年以降の映画100本

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『河』ジャン・ルノワール (1951)
雨月物語溝口健二 (1953)
東京物語小津安二郎 (1953)
七人の侍黒澤明 (1954)
『奇跡』カール・テオ・ドライヤー (1955)
『理由なき反抗』ニコラス・レイ (1955)
『めまい』アルフレッド・ヒッチコック (1958)
『ぼくの伯父さん』ジャック・タチ (1959)
大人は判ってくれないフランソワ・トリュフォー (1959)


『情事』ミケランジェロ・アントニオーニ (1960)
『穴』ジャック・ベッケル (1960)
勝手にしやがれジャン=リュック・ゴダール (1960)
『8½』フェデリコ・フェリーニ (1963)
シェルブールの雨傘ジャック・ドゥミ (1964)
『ポケットの中の握り拳』マルコ・ベロッキオ (1965)
『ペルソナ』イングマール・ベルイマン (1966)
『欲望』ミケランジェロ・アントニオーニ (1967)
少女ムシェットロベール・ブレッソン (1967)
『テオレマ』ピエル・パオロ・パゾリーニ (1968)
ローズマリーの赤ちゃんロマン・ポランスキー (1968)
『ケス』ケン・ローチ (1969)
『アントニオ・ダス・モルテス』グラウベル・ローシャ (1969)
アンドレイ・ルブリョフ』アンドレイ・タルコフスキー (1969)
『悲しみと哀れみ』マルセル・オフュルス (1969)


『早春』イエジー・スコリモフスキ (1970)
フレンチ・コネクションウィリアム・フリードキン (1971)
時計じかけのオレンジスタンリー・キューブリック (1971)
『Lo Scopone Scientifico』ルイジ・コメンチーニ (1972)
『トゥキ・ブゥキ/ハイエナの旅』ジブリル・ジオップ・マンベティ (1972)
『開いた口』モーリス・ピアラ (1974)
『パリの灯は遠く』ジョゼフ・ロージー (1976)
『Passe montagne』ジャン=フランソワ・ステヴナン (1978)
『破滅の愛』マノエル・ド・オリヴェイラ (1978)
『マンハッタン』ウディ・アレン (1979)
ディア・ハンターマイケル・チミノ (1979)
『エイリアン』リドリー・スコット(1979)


天国の門マイケル・チミノ (1980)
『エレファントマン』デヴィッド・リンチ (1981)
E.T.スティーヴン・スピルバーグ(1982)
『ファニーとアレクサンデル』イングマール・ベルイマン (1983)
『わが友イワン・ラプシン』アレクセイ・ゲルマン (1984)
『童年往事 時の流れ』ホウ・シャオシェン (1985)
ショアークロード・ランズマン (1985)
『メーヌ・オセアン』ジャック・ロジェ (1986)
『蜂の旅人』テオ・アンゲロプロス (1987)


『スモーキング/ノースモーキング』アラン・レネ (1993)
ピアノ・レッスンジェーン・カンピオン (1993)
『親愛なる日記』ナンニ・モレッティ (1994)
ジェラートの天国(神の喜劇)』ジョアン・セーザル・モンテイロ (1996)
『そして僕は恋をする』アルノー・デプレシャン (1996).
『一瞬の夢』ジャ・ジャンクー (1997)
『ライブ・フレッシュ』ペドロ・アルモドバル (1997)
HANA-BI北野武 (1997)
萌の朱雀』河瀨直美 (1997)
桜桃の味アッバス・キアロスタミ (1997)
ユマニテ』ブリュノ・デュモン (1997)


『囚われの女』シャンタル・アケルマン (2000)
ヤンヤン 夏の想い出』エドワード・ヤン (2000)
『裏切り者』ジェームズ・グレイ (2000)
千と千尋の神隠し宮崎駿 (2001)
鉄西区ワン・ビン (2003)
『Talaye Sorkh』ジャファール・パナヒ (2003)
『エレファント』ガス・ヴァン・サント (2003)
ミリオンダラー・ベイビークリント・イーストウッド (2005)
ヒストリー・オブ・バイオレンスデヴィッド・クローネンバーグ (2005)
『恋人たちの失われた革命』フィリップ・ガレル (2005)
『レディ・チャタレー』パスカル・フェラン (2006)
『ブレッド・ナンバー・ワン』ラバ・アメール・ザイメッシュ (2006)
4ヶ月、3週と2日クリスティアン・ムンジウ (2007)
『うつろいの季節』ヌリ・ビルゲ・ジェイラン (2007)
『ノー・カントリー』コーエン兄弟 (2007)
『ウォーリー』アンドリュー・スタントン (2008)
『My Magic』エリック・クー (2008)
『愛の勝利を ムッソリーニを愛した女』マルコ・ベロッキオ (2008)
預言者ジャック・オーディアール (2009)
『私たちの好きな八月』ミゲル・ゴメス (2009)
『ハートロッカー』キャスリン・ビグロー (2009)


『ミステリーズ 運命のリスボンラウル・ルイス (2010)
『シャッター・アイランド』マーティン・スコセッシ (2010)
ブンミおじさんの森』アピチャートポン・ウィーラセータクン(2010)
『Le BM du seigneur』ジーン・チャールズ・フエ (2011)
メゾン ある娼館の記憶』ベルトラン・ボネロ (2011)
メランコリアラース・フォン・トリアー (2011)
ホーリー・モーターズレオス・カラックス (2012)
『サウダーヂ』 富田克也 (2012)
愛、アムールミヒャエル・ハネケ (2012)
『湖の見知らぬ男』アラン・ギロディ (2013)
『贖罪』黒沢清 (2013)
『Tip Top』セルジュ・ボゾン (2013)
『アンダー・ザ・スキン 種の捕食』ジョナサン・グレイザー (2014)
『シリア・モナムール』 オサーマ・モハンメド/ウィアーム・シマブ・ベデルカーン (2014)
『禁じられた歌声』 アブデラマン・シサコ (2014)
アクエリアスクレーベルメンドンサ・フィリョ (2016)
マンチェスター・バイ・ザ・シーケネス・ロナーガン (2016)
『ビリー・リンの永遠の一日』アン・リー (2017)
『ムーンライト』バリー・ジェンキンス (2017)
ファントム・スレッドポール・トーマス・アンダーソン (2018).
『Mektoub, My Love: Canto Uno』アブデラティフ・ケシシュ (2018)
『ハイ・ライフ』クレール・ドニ (2018)

www.lemonde.fr

てらさわホーク『マーベル映画究極批評』の問題点について

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 特に前置きもなく始めるが、まず、最初に気になった点。本書には出典の表記が見当たらないのである。

 最近、幻冬舎から歴史書という触れ込みで出版された『日本国紀』が、他の文献やウェブからの多数の転載があるにもかかわらず参照元の表記がない点で、厳しい批判を受けている。てらさわホークも、著者のことをTwitterで何度か批判していたようだ。しかし、この『究極批評』という書籍もまた、同様の欠陥を抱えているわけである。いや、これはただの「映画エッセイ」なのだから、そこまで厳密にする必要はない、ということなのかもしれない。しかし、それならば「批評」という言葉を安易に使っては欲しくない。また、単なる雑文集と割り切って読むにしても、参考文献の記載すら無いというのは、さすがに困ってしまう(ちなみに、この本には膨大な欄外註があるので、スペースの都合という理由ではなさそうだ)

 具体例をひとつ上げてみよう。本書では、マーベルの責任者であるアイザック・パールムッターについて、何度も言及している。MCUの歴史を語る上では外せない人物であり、現在は、ケヴィン・ファイギボブ・アイガーによって、映画部門からは事実上追われているという。パールムッターが、いかにMCUの内容に介入したのかについて、『アントマン』の章では、次のように解説されている。

マーベル・エンターテインメントCEO、アイザック・パールムッターの直下に組織された委員会には、同社社長のアラン・ファイン、マーベル・コミックス編集長ダン・バックリー、チーフ・クリエイティヴ・オフィサーのジョー・カサーダ、そして作家のマイケル・ブライアン・ベンディスと言うメンバーが集められ、スタジオが製作する映画作品に対して、さまざまな監修を行ったとされている。委員会からは、コミックとの整合性に関する細やかな指摘や、ときには脚本への修正指示までもが現場へのメモとして届けられた。コミッティのメンバーは、それぞれ本職を持っていたためにその指示は遅く、しばしば製作の現場に混乱を招いた。エドガー・ライトが『アントマン』からの降板を決めた背景にも、このコミッティからのメモがあったと言われている。
コミッティは、『ガーディアン・オブ・ギャラクシ-』のサウンドトラックにも口を出している。70年代のヒット曲が作品にそぐわないと判断したのか、または楽曲の使用料を節約しようとしたのか、それは定かではない。確かなのは、物言いをつけられてフラストレーションを溜めたジェームズ・ガンが、委員会を指して「コミック屋と玩具屋のグループ」と呼んだことだけだ。(P.146~147)

 この情報が何を出典としているかは、まったく説明がない。ためしに、いくつかのキーワードで検索すると、ヴァニティ・フェアの記事が数秒で見つかった。

Since this post originally went up, Birth Death Movies reported that in addition to cutting Ike Perlmutter out of the creative process, Marvel has also disbanded its Creative Committee, which consisted of “Alan Fine, who came with Perlmutter to Marvel through Toy Biz, Brian Michael Bendis, who is a prolific Marvel Comics writer, Dan Buckley, publisher of Marvel Comics and Joe Quesada, former editor-in-chief of Marvel Comics and the current Chief Creative Officer of Marvel Enterprises.” According to the report, the Creative Committee was responsible for a lot of delays on conservative feedback on Marvel cinematic properties.


https://www.vanityfair.com/hollywood/2015/09/marvel-studios-ike-perlmutter-kevin-feige

Director James Gunn chalked up every conflict he had making Guardians of the Galaxy to Perlmutter and the Marvel “creative committee”—a legacy of the studio’s early days—which read every script and gave writers and filmmakers feedback. Said Gunn, “They were a group of comic-book writers and toy people” who gave him “haphazard” notes. The committee, for example, suggested Guardians of the Galaxy ditch the 70s music that the film’s hero loves.


https://www.vanityfair.com/hollywood/2017/11/marvel-cover-story

 おそらく、これらのネット記事を参考にしつつ書いたと断定しても良さそうである。短い文章で「コミッティ」「委員会」と2つの訳語が意味もなく混在しているのも、そう言えば、グーグル翻訳を使うとよく起こる現象ではある(さすがに、そんなことは、してないだろうが)。こうやってネタ元がすぐに特定できれば、読む側も苦労はしないのだが、そうではない箇所も当然ながら出てくる。

 パールムッターは、マスコミにほとんど露出していないこともあり、ファイギやアヴィ・アラドといった他のマーベルの重要人物に比べると言及されることは少ない――日本語の文献としては、『ブロックバスター戦略:ハーバードで教えているメガヒットの法則』(アニータ・エルバース著)などがある――ため、下手をすると、この『究極批評』が、今後、資料として参照されてしまう事態もありえるわけだ。やはり、全てとは言わなくても、必要最低限、出典の表記は必要だろう。

 次に気になる点を挙げると、本書の前半と後半で、著者の主張にブレが生じてくることである。

 てらさわホークの、フェイズ1からフェイズ2にかけての主張は、とてもシンプルである。アメコミヒーロー映画は単純で明るくて、演出もわかりやすいものが優れているというものだ。

 例えば『インクレディブル・ハルク』の章では、MCU以前に製作されたアン・リー監督の『ハルク』を酷評し、その重厚なドラマ作りを嘲笑する。そして、シンプルなアクションに徹した『インクレディブル・ハルク』を称賛して、次のように書く。

傍目から見れば、いかにも荒唐無稽な物語でしかない。だが、その物語の前後左右に立派な理由づけを行い、いかにも重大な価値のあるものにみせかけようとするのではなく、おなじみのストーリーを何の衒いもなく実写に叩きつけてみせる。これは明らかにコミックであり、それ以上でもそれ以下でもないが、マーベル・スタジオズ版『インクレディブル・ハルク』はそれを自信を持って堂々とやり切っている。そこに得体の知れない感動を覚える。

 また、『マイティー・ソー:ダーク・ワールド』の章では、当初の監督だったパティ・ジェンキンスが降板させられた件について、次のように解説している。

ジェンキンスがマーベル・スタジオズに提案したのは、宇宙をまたいだ『ロミオとジュリエット』とでも呼ぶべき物語だったという。(中略)ケネス・ブラナーのあとを引き継いだ監督が、シェイクスピア調になるのは理解できる。(中略)だが、ジェンキンスの提案した引き裂かれた男女のドラマはマーベル側の求めるものではなかった。(中略)かつて、ケヴィン・ファイギがいみじくも言ったように、コミック映画の成功の鍵はコミックそのもののなかにある。シェイクスピアであれギリシャ悲劇であれ、そうしたジャンルの威光を借りなくとも、コミックを映画にすればいい。その理念があったからこそ、ジェンキンスとの「方向性の違い」が生じたのではないか。そう思えてならない。(P.96~98)

 つまり、アメコミ映画は単純明快であるべきであり、マーベルもまた同様に考えているはずであり、故にパティ・ジェンキンス監督は解雇されたのだと主張しているわけだ。(ちなみに、ジェンキンスは、女性キャラクターをもっと活躍させようとして反対されたとする記事もある)

映画秘宝」などのライターとして、かつて、クリストファー・ノーランの『ダークナイト』や、ザック・スナイダーの『マン・オブ・スティール』などをくり返し批判し、最近では『シュワルツェネッガー主義』という著作もある、てらさわホークの、アメコミヒーロー映画についての評価基準は、おおむね、このような感じである。

 フェイズ1の『アベンジャーズ』の章では、クライマックスのニューヨーク決戦について、次のように述べている。「同時多発テロの記憶に理想的な結末を書き加えたい、という意志が働いていたのではないか。もちろん、これは仮説に過ぎず、ジョス・ウェドンとマーベル・スタジオズが何を考えていたかは知るよしもない」(P.77) このくだりからも、当初は、映画から安易に政治的メッセージを読み取らないよう、慎重な姿勢をとっていることがうかがえる。

 ところが、フェイズ2終盤の『キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー』の章になると、見方が大きく変わってくる。てらさわホークは、脚本家が、この映画は政治的ではないと発言していることを紹介した上で、「とはいえ、今の社会に対するコメンタリーが、どうしても行間から漏れ出している。作り手が何を言おうが、これは間違いなく21世紀の今日だからこそ成立した映画だ」(P.111)と断言するようになる。

 フェイズ3では、この傾向は更に強まっていく。たとえば、『マイティー・ソー:バトルロイヤル』について、「最初の有色人監督であるワイティティが、オフビートなコメディの底に政治的なテーマを置いたことは大きな意義がある」(P.201)と唱える。また『ブラックパンサー』も、MCU初の黒人ヒーロー主演作として、当然ながら賛辞を惜しまず、「暗喩ではない直接的な言葉をもって、現実社会への言及をマーベルがついに始めた。」(P213)と、メッセージそのものを評価するようになる。

 しかし、もともとの主張を当てはめるなら、『プラックパンサー』は、「物語の前後左右に立派な理由づけを行い、いかにも重大な価値のあるものにみせかけようと」した典型的な作品であるはずだ。しかも、てらさわホークは、アクション描写の不出来さを厳しく批判して「ここまで凡庸なアクション場面を、なぜよしとしてしまったのだろう」(P.211)とまで言っているのだ。アクションはダメだけどメッセージに賛同するから絶賛します、というのでは、フェイズ1を論じていた頃の姿勢とは、ずいぶんと離れている。

 これが単に、MCUの作風が、昔と今では変化してきたので、評価の仕方も変えたのだ、というのであれば理解はできる。だが、てらさわホークは、フェイズ3の章に入ると、「コミックへの実写化を臆面もなく繰り返してきたかと見えたマーベル・スタジオズの作品は、実はそこかしこに現代社会へのコメンタリーが仕組まれてきた」(P.212)と『インクレディブル・ハルク』の章で言ったことを、ひっくり返すのである。
 もし、てらさわホークの主張を説得力のあるものにするならば、フェイズ1とフェイズ2の作品群にも、さまざまな「政治的暗喩」が仕組まれていたことを、あらかじめ指摘しておかなければならない。だが、そのような指摘は、ほとんど見られない。

 たとえば、『キャプテン・マーベル』の章で、てらさわホークは、次のように唱える。

パターナリズム、すなわち父権主義。立場の強い者が、弱い者の意思決定に強制的に介入する。その考え方が誤っていたとしても、まず尊敬することを求められる。そんな理不尽なシステムに、マーベル・ヒーローたちは悩み、苦しんできた。(P.239)

 まるで父権主義との戦いが、シリーズのテーマであったかのような書きぶりである。もしも、それまでの章で、このような議論を積み重ねてきたのであれば、この言葉にも説得力が生まれただろう。しかし、MCUにおいて父と息子の葛藤がよく描かれるという指摘こそ、何度かあるものの、そこから「理不尽なシステム」への批判を読み取るような姿勢は感じられなかった。

 ソーの3部作は、父オーディンの影響から主人公がついに脱して、とうとう自己を確立するまでのストーリーと読むこともできる。(P.239)

 こんな発言にしても、過去の3つの章で、そういう読み方を明示していない以上は、後出しジャンケンの感は否めない。


 本書が、後づけで加えていくのは、「父権主義批判」だけではない。人種をめぐる問題もそうである。

 てらさわホークは、『ドクター・ストレンジ』の章の最後で、突然「ホワイトウォッシュ問題」にふれる。原作コミックではチベット人とされるエンシェント・ワンを白人女性のティルダ・スウィントンが演じた点については、当時大きな批判があり、マーベルやスウィントン本人も声明を出して、差別的意図はなかったと弁明する事態になった。てらさわホークは、この批判に賛意を示し、「マーベル映画においては人種の多様性が解決されるべき問題として残っていることも事実ではある。」(P.172)と唐突に言い出すのだ。

 唐突と書いたのは、本書では、人種は多様であるべきという主張は特にされてこなかったからである。それどころか、『キャプテン・アメリカ/ファースト・アベンジャー』の章では、主人公が所属するハウリングコマンドーズが「人種国籍混合の寄せ集め部隊」(P.64)として描かれる点について、第二世界大戦当時にはありえなかったはずだと、時代考証の観点から批判していたほどである。

アイアンマン3』の章ではどうだろうか。この作品には、ヴィランとして、アジア人のテロリスト、マンダリンが登場する。演じるのはベン・キングスレー。過去にも、『ガンジー』に主演した経歴の持ち主である。少なからぬ観客は、「また白人が有色人種を演じるのか」と思ったのだが、実は、その正体は、トレバー・スラッテリーという俳優が演じた偽物だった事が明かされる。これは、「ハリウッド映画は、オリエンタルな悪役を好んで登場させ、白人に演じさせてきた」という過去を踏まえたトリックである。普通なら、白人が東洋人を演じている時点で明らかに変なのだが、観客は、そういうものとして見過ごしてしまうという「偏見」を利用したわけだ(キングスレー自身はインド人の血筋をひいているが)。しかし、てらさわホークは、マンダリンについては全く論じていない。あらすじ紹介で名前が出るのみで、正体にも触れていない。興味の対象外なのだ。

 MCUには、その後も「人種のトリック」を用いた作品がある。『スパイダーマン:ホームカミング』は、マイケル・キートンが、ヴィランのヴァルチャーを演じている。一方で、ローラ・ハリアーが、ヒロインの一人であるリズ・アレンを演じている。二人をめぐるドラマは並行して描かれるのだが、クライマックスで思わぬ形で交差する。実は二人は親子だったのである。白人のキートンと、黒人の血をひくハリアーが、血縁者を演じていると想定していなかった観客は、ショックを受けたことだろう。(ここで、『ホームカミング』が、過去の『スパイダーマン』シリーズに比べても、ニューヨークの人種混合ぶりを丁寧に描いてきたことが、ある種の伏線だったことがわかる)
 てらさわホークは、ヴァルチャーことエイドリアン・トゥームスのキャラクター造形を絶賛しており、数ページにわたって論じている。問題の場面も、「このトゥームスこそが、ピーターの好きになった同級生、リズ・アレンの父親だということが明らかになった際の衝撃。」(P.190)と褒めているのだが、しかしここでも、人種のトリックには触れていない。

 こうして見ていくと、てらさわホークが、MCUにおける有色人種の描き方について、注意を払ってきたようには、あまり思えないのである。

 本書は、本来の完結編である『アベンジャーズ/エンドゲーム』は取り上げておらず、最後の章が『キャプテン・マーベル』になっている。

 ここでも、てらさわホークは「主人公がパターナリズムを明快に突破するところに、『キャプテン・マーベル』の新しさと素晴らしさがある」(P.240)と、政治的なメッセージを讃えている。先に紹介した『ブラックパンサー』の章における「暗喩ではない直接的な言葉をもって、現実社会への言及をマーベルがついに始めた。」(P213) といった発言と合わせると、まるで、本書の結論は「MCUは、政治的主張の強調を新しく始めた」といった風にも読めてしまう――およそ政治的とは言えない『エンドゲーム』を観てしまえば、かなり怪しい見方であることは明らかではあるが。

 それにしても、『キャプテン・マーベル』のフェミニズム的なメッセージを高く評価するこの『究極批評』の中で、女性について、どれだけ語られてきたのだろうか。

 MCUは、『ドクター・ストレンジ』以前にも、いわゆる「政治的に正しくない描写」が批判を浴びたことがある。『アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン』で明かされた、ブラック・ウィドウが不妊手術を受けさせられていたという設定に対しである。しかし、てらさわホークは、この件について「ウェドンに対する指弾は、少々短絡的に過ぎるのではないかと思う。」(P.135)と軽くあしらって、おしまいにしている。

 最初から読み返してみても、『アイアンマン』の章にはペッパー・ポッツの名前は出てこない。『インクレディブル・ハルク』のベティ・ロスは、あらすじ紹介に登場するのみ。『アイアンマン2』で初登場したブラック・ウィドウは、ニック・フューリーの部下としか説明されない。『マイティー・ソー』のジェーン・フォスターも、『キャプテン・アメリカ』のペギー・カーターも、ほぼ同様である。 
 それどころか、フェイズ3の『ブラックパンサー』の章でも、黒人ヒーローが描かれたことに最大級の賛辞を送りつつ、女性キャラクターについては、シュリもオコエも、名前すら出てこないのである。『ガーディアン・オブ・ギャラクシー』の、ガモーラやネビュラですら、特筆されているわけではない。

 結局、本書で、MCUの女性描写について、「彼女たちのキャラクターにはひとつの枷が嵌められていないだろうか」(P231)という問題提起がされるのは、最後から2番めの章にあたる『アントマン&ワスプ』にいたってのことになる。しかもそれは、MCUにおける男性サイドキック(相棒)が単調だという指摘とセットになっており、どうも、てらさわホークは、女性キャラクターにサポート役以上の意味を見出していないかのような書きぶりなのである。

 率直に言ってしまうと、女性キャラクターたちに対する無関心ぶりは、本書が何度も批判的に言及するアイザック・パールムッターの女性軽視とは、さして距離がなさそうに見える。それが『キャプテン・マーベル』の章で、突然のフェミニズム讃歌となるので、一読者としては戸惑うしかない。

 てらさわホークが関心を向けないのは、何も女性キャラクターだけではない。本書では、それまで各監督の個性について、それなりの紙数を割いてきた。ルイ・テレリエ(P.35)やアラン・テイラー(P.98)、ペイトン・リード(P.142)といった、世間では、ほとんど作家性を論じられたことのない監督でさえ、わずかでも言及はあった。ところが、『キャプテン・マーベル』の共同監督であるアンナ・ボーデンとライアン・フレックは、すっかり無視されているのである。特にボーデンは、MCU映画では初の女性監督であるにもかかわらず、プロフィールの紹介すらないのだ。これが単なる、見落としでも、うっかりミスでもなさそうなのは、DCユニバースの『ワンダーウーマン』にも何度か言及しているのにも関わらず、その監督がパティ・ジェンキンスである点について触れていないことからも推測される――ここで、ジェンキンスの『ダーク・ワールド』降板事件を、一方的に彼女の非であるとしていたことを思い出してもいいだろう。

 ともあれ、女性の父権からの解放の素晴らしさを謳い上げつつも、その作品を作りあげた女性が「見えない人間」と化しているのは、この本の特徴をよく表しているように思える。

 他にも気になる点は幾つかあるのだが、すでに長文となってしまったので、ひとまず、ここまでとしておく。今後、版元に増補版を出す意志があるのであれば、単に『エンドゲーム』の章を足すだけではなく、特にフェイズ1から2にかけての部分は、全面的に手を加えるべきだろうし、できれば、資料の出典も付け加えるように著者に求めれば、より良い内容になるのでは、と思われます。


【主な参考資料(ウェブ限定)】

"Secrets of the Marvel Universe"
https://www.vanityfair.com/hollywood/2017/11/marvel-cover-story

"Avengers: Endgame Doesn’t Just Mark the End of the Avengers as We Know Them"
https://www.gq.com/story/avengers-endgame-doesnt-just-mark-the-end-of-the-avengers-as-we-know-them

"Why It Matters That Marvel Studios Just Escaped Its Eccentric Billionaire C.E.O. "
https://www.vanityfair.com/hollywood/2015/09/marvel-studios-ike-perlmutter-kevin-feige

"Superheroes soar above Disney tensions"
https://www.ft.com/content/34fe39a6-e79f-11e1-8686-00144feab49a

"Why Director Patty Jenkins Left Marvel’s “Thor 2”"
https://www.buzzfeed.com/susancheng/patty-jenkins-thor-2

"Why 'Thor: The Dark World' is Still Marvel's Worst Movie"
https://www.moviefone.com/2018/11/06/thor-the-dark-world-worst-marvel-movie/

"Disney And Marvel Do Damage Control After Media Scrutiny Of Big Boss Ike Perlmutte"
https://deadline.com/2012/08/disney-and-marvel-do-damage-control-ike-perlmutter-from-media-attacks-320837/

"Marvel Shake-Up: Film Chief Kevin Feige Breaks Free of CEO Ike Perlmutter"
https://www.hollywoodreporter.com/news/marvel-shake-up-film-chief-819205

"Spider-Man's colourblind casting: a case of when it's OK to break with the canon"
https://www.theguardian.com/film/2016/aug/22/spider-man-colourblind-casting-zendaya-mary-jane-watson

"Tilda Swinton feels ‘collateral damage’ of Doctor Strange ‘whitewashing’ controversy"
https://www.scmp.com/culture/film-tv/article/2027800/tilda-swinton-feels-collateral-damage-doctor-strange-whitewashing

”Sir Ben Kingsley: Trevor Slattery Could be The Mandarin After All”
https://www.ign.com/articles/2014/08/27/sir-ben-kingsley-trevor-slattery-could-be-the-mandarin-after-all