渡辺信一郎監督がキャリアと『カウボーイビバップ』を振り返る。「実写版はオープニングで見るのを止めた」
・最も成功をおさめたアニメ監督の一人がオリジナルの『カウボーイビバップ』の作者として知られる渡辺信一郎だ。その長く波乱に満ちたキャリアについて話を聞く機会を得た事は、私にとってまたとない喜びだった。
・もとから映画づくりに興味を持っていた渡辺がアニメに目を向けたのは若い頃だったと話す。
私は京都の生まれですが、都会ではなく北部の山間部に住んでいました。綾部市と言ってとても田舎なのです。僻地でしたから都会的なものはろくにありませんでした。私は野山で遊ぶ野生児みたいなものでした。何しろ実家の近くにはバスの路線も店舗もありません。テレビは見ていたけど、それよりは自然の中で遊んでばかりいました。
映画やアニメを見るようになったのは中学校に通い始めてからです。そして、だんだんと自分でも作ってみたいという気持ちになってきました。実写にもアニメにも同じくらい興味がありましたから、高校を卒業する頃には、どちらの道に進むのか悩みました。それは1984年で『風の谷のナウシカ』『うる星やつら2 ビューティフルドリーマー』『超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか?』が公開された年です。こうしたアニメ映画を観て、日本のアニメは日本の実写よりもはるかに優れていると感じました。それでアニメを作ることにしたんです。
この三作の中では『うる星やつら2 ビューティフルドリーマー』が一番好きですね。この映画から自由な創造性を感じ取ったのです。たくさんのクレイジーな出来事がとてもシュールなやり方で飛び出してくる。何が起こっても不思議ではないという感覚に感動しました。
中学生に話を戻すと、『機動戦士ガンダム』や『伝説巨神イデオン』のようなサンライズのアニメを楽しんでいました。当時のサンライズは毎年のように新作やオリジナル作品を数多く作っていた時期です。だからアニメ会社を選ぶとき、サンライズに入社すればいつか自分でもオリジナルのアニメを作れるかもしれないと考えたわけです。私は、初めから自分のオリジナル作品を作りたかったのであって、別にヒットしたマンガや人気のある小説をアニメ化したかったわけではないのです。
・上京してサンライズに就職した渡辺は、そこで出会った高橋良輔監督に目をかけられる。渡辺は採用試験の際にドレスコードがあることに気づいていなかったという。
サンライズを受験した時、カジュアルな業界だと思っていたのでTシャツにジーンズで行ったんです。まわりはみんなスーツ姿でちょっとショックでしたね。受験者も少なくて六、七人くらいでした。試験の内容は、まず自分の好きな映画とその理由を説明する筆記試験があって、それから面接がありました。当時の私は未熟で世間知らずでしたから、正直にストレートに受け答えをしました。面接官は三人いて、うち二人は顔をしかめていました。ところが残る一人は私のことをかなり面白がってくれたみたいでした。それが高橋良輔だったのです。意外にもサンライズは私を採用したのですが、高橋さんが推薦してくれたのだと後になって知りました。当時のサンライズが作っていたテレビアニメの感想を聞かれて「とてもつまらない」と単刀直入に答えたのを覚えています。今思えば酷いことをしたものです。
そんな風にサンライズに入社して、まずは『蒼き流星SPTレイズナー』の現場に入りました。もちろん『レイズナー』の仕事をする前から高橋さんのアニメを観ていましたし、特に『装甲騎兵ボトムズ』は大好きでした。『レイズナー』では、主に制作進行をしていましたが、これは部屋の掃除とか物流の管理といったものです。車を運転したりデザイナーたちに電話で催促したりですね。まるでクリエイティブな仕事ではありませんでしたし、当時は高橋さんと直に交流する機会はほぼ無かったんです。
高橋さんはとても穏やかで親しみやすい人柄だったので、いつもスタジオは居心地が良かったですね。富野由悠季のスタジオからは怒鳴り声が絶えなかったけれど『レイズナー』のチームはみんな仲が良かった。よく飲みに行っては奢ってもらってましたね。『レイズナー』は厳しいスケジュールだったので常に重労働が求められました。しかし、チームではどんなに忙しい時でも必ず飲みに行く時間を作ってくれた。実際、スタジオにいるよりも一緒に飲んでいる時の方が勉強になりましたね。『レイズナー』には各話演出家が何人もいましたが、みんな大酒飲みで日本酒を好んでいました。それで、よくお付き合いしたわけですが、すぐに彼らが映画狂だとわかりました。あの人たちとのおしゃべりは本当に楽しかったですよ。
―――演出家への出世から監督になるまで
・渡辺は監督になる前、各話演出としてさまざまなアニメに参加した。そこではよりクリエイティブな仕事ができたが、制約が無いわけではなかった。
『レイズナー』の後に『バツ&テリー』というほとんど知られていない作品をやっています。他に『シティーハンター』にも参加しましたが、この辺は制作進行だったので、特に面白い話はないですね。だいたい十作品くらい各話演出を手がけていて、そちらの方がクリエイティブな面で得たものが多かったですね。最初は『ダーティペア』のOVAで、それから『機甲猟兵メロウリンク』と『魔神英雄伝ワタル2』だったかな。あと『オバタリアン』も。
当然みんな演出になりたがるわけですよ。それで演出をやりたいという人の中から実力を認められた人だけが、各話演出に起用されます。僕はずっと演出をやりたいと言っていたので、テストとして演出を任せてもらいました。絵コンテも本番用ではなく試作として描きました。
演出家時代に、アニメ作りの技術的な事柄は一通り学びました。各話演出というのはあくまでも監督の補佐役ですから、クリエイティブな部分では常に欲求不満でした。私が変わった発想でユニークな絵コンテを提出すると必ず修正されました。つまり創造の自由は制限されていたのです。だから、自分の腕を磨くためひたすら勉強することに時間を費やしていました。
『疾風!アイアンリーガー』の制作中にアクションシーンの絵コンテを任されました。私はサム・ペキンパーの映画が好きなので、そのスタイルで絵コンテを書いたんです。しかし監督はまるで気に入らず私の描いたものは全く使われませんでした。とはいえ、今となっては監督の選択は正しかったと思っています。
『機動戦士ガンダム0083 STARDUST MEMORY』を手がける頃になると、自分の技術が多少なりとも向上したことに気づいていて、それが自信につながっていました。しかし、ストーリー面にはほとんど関われなかったので、もっと違った風にしたいともどかしく思っていました。結末についても疑問だらけでした。どうしてコウは自分を裏切ったニナのような人間を求めたのか理解できなかったのです。未だに『ガンダム0083』の結末についてはファンから不満の声を聞きますが、私が演出に参加したのは第12話までなので第13話は無関係だと答えることにしています。
初めて作品全体の演出を任されたアニメが『マクロスプラス』です。しかし実際の監督は河森正治で、私は共同監督に近い立場でした。クレジットでは河森さんは「総監督」という表記になっていますが、彼が事実上の監督でしたね。それでも、各話演出の時とは違ってストーリーも含めてより多くの工程に関わりました。全体の演出を任されたことで制作全般をどのように見ていくのかという経験を得られましたね。
『マクロスプラス』では、全体の設定や世界観は河森さんのものだったので、私はその補佐役に徹していました。結果的には私の志向と河森さんの志向がミックスされたアニメになっています。『マクロスプラス』も、自分からやろうと思ったわけではなく、ちょうど依頼があったから引き受けたまでです。それに当時のサンライズでは監督を社員として雇用することはありませんでした。つまり、私は各話演出になった時点で、事実上サンライズとの契約を解かれたわけです。それがフリーランスになった経緯ですね。
高橋さんの場合、自分ひとりで作業をするわけではなく、他の人に作業を任せてしまい、その人から能力を最大限に引き出すことで、制作全体を豊かにすることがとても上手でした。彼は優れたマネージャーなのです。河森さんは正反対で何でも自分でやりたがるんです。つまり、河森さんとの仕事と高橋さんとの仕事はまるっきり違うわけです。高橋さんは常に紳士的でしたが、対象的に河森さんはかなりエキセントリックな方でした。彼も穏やかな性格ではあるのだけどエキセントリックなのです。とても純粋で目を輝かせていて、人を引き付ける魅力がありました。河森さんはとても興味深い人物ですよ。
・『カウボーイビバップ』を史上最高のアニメに数える人は多いだろう。しかし、その出発点はかなりあやふやなものだったという。
『マクロスプラス』で監督をやったと言っても、あくまで河森さんがメインの監督です。自分のやりたいことができない状況でした。そのフラストレーションが心の中で大きな原動力となって自分のオリジナル作品をやりたくなっていました。そして『カウボーイビバップ』は、初めて自分の好きなことができたアニメになりました。だから『カウボーイビバップ』以前の作品は特に気にしなくてもいいわけです。
『カウボーイビバップ』の頃は、『スターウォーズ』が「ファントム・メナス」で復活するという時期だった。バンダイとしては、これからスターウォーズのブームがまた来るだろうし宇宙船が注目されると考えたわけです。そこでオリジナルの宇宙船のプラモデルを販売しようという話になって、それで宇宙船が登場するアニメを作れという発注が来たわけです。宇宙船さえ出てくれば後は何をやってもいいということになった。ところが、好き勝手にやり始めたらバンダイから「こんなアニメのプラモデルは売れない」と言われてしまった。結局バンダイは宇宙船関連のプラモデルの企画を中止にしてスポンサーからも手を引いてしまい、『カウボーイビバップ』は行きづまってしまったのです。
当時のバンダイビジュアルは比較的新しい会社で、新しいアニメを探していたところだったので、話を持っていってスポンサーになってもらいました。おかげで『カウボーイビバップ』は継続できたのですが、バンダイビジュアルの協力がなければ打ち切りになっていたでしょう。だから『カウボーイビバップ』が大きな成功を収めて今でもたくさんのプラモデルや玩具が作られていることは、とても嬉しいですね。これは、当時のバンダイにはアニメへの投資先を決める見識がなかったということでもあります。
宇宙船のデザインはコンペで選びました。河森さんやカトキハジメなど、たくさんの著名なアーティストに参加してもらったのですが、結局、山根公利に決定しました。山根さんのデザインが一番リアルで、本当に存在して人が使えそうに見えたからです。単に格好良いだけでなくて存在感のあるリアルなデザインであることが肝心だったのです。私たちは宇宙船にニックネームをつけたかったので、山根さんの魚にまつわるネーミングをするという発想はとてもクールでみんなが歓迎しました。
『カウボーイビバップ』の成功は、私の想像を超えるものでした。当時のアニメは日本以外ではさほど人気がなかったからです。『AKIRA』はとても有名だったようですが、あくまでも例外です。なので『カウボーイビバップ』の成功は意外でしたし、そうなった理由を今でも知りたいですね。私は子供の頃から、日本映画よりもアメリカ映画やヨーロッパ映画などの洋画が好きでした。日本映画はあまりにもセンチメンタルだったからです。大仰なクライマックスでわざわざ感傷的な音楽を流したりする。日本映画は観客を泣かせたがるのです。私はそれとは対照的なインターナショナルな手法で、何かクールなものを作りたかったのです。私が『宇宙戦艦ヤマト』があまり好きでなかった理由は、あまりにもメロドラマだったからですね。
最初の構想では『流れ星ビバップ』というタイトルでしたが商標権の関係で使えなくなってしまいました。そこで、英語にして『シューティングスター・ビバップ』を提案しましたが、こっちも商標権で競合してしまった。そこで、カウボーイと呼ばれる賞金稼ぎを主人公にしたストーリーを考えて『カウボーイビバップ』という題名にしました。実は、賞金稼ぎをカウボーイと呼ぶのは(脚本の)信本敬子さんのアイデアで、題名にもつけようということになりました。信本さんとは志向や感覚が似ているので、あれこれ説明しなくても話が通じました。
『闇夜のヘヴィ・ロック』の回は(プロデューサーの)南さんの冷蔵庫から生まれたものです。『レイズナー』の頃の話ですが、当時の南さんは先輩の制作進行でした。ある日、南さんから引っ越しの手伝いを頼まれて行ってみると冷蔵庫が外に置かれていて「これは開けられない」と言うんです。あまりに長いこと放置していたので、中に残っている食品がどうなったかわからないと。ダクトテープでぐるぐる巻きにしてあって絶対開かないようになっていました。それで中身はどうなっていたのかずっと考えていたわけです。
あの回での音楽の使い方ですが、私はもうずっと音楽フリークだったんです。長い間たくさんの音楽を聴いて楽しんできました。もともと、若い頃はミュージシャンになろうと思っていましたが、自作の曲は酷いものばかり。それで音楽はあくまで趣味ということにして、仕事として映画をやるようになったわけです。私はYMOのファンだったのでシンセサイザーを使おうとしたのですが値段の安いものしか買えませんでした。安物だとYMOが使っていたものと違って音色が非常に少なかったのです。それでシンセサイザーの音楽作りは断念しました。しかし、監督になった時、自分の強みは何だろうと自問しました。他の監督との違いは何なのか? 回答は音楽に詳しくて音楽を愛しているということでした。もしかすると、音楽を最大限に活かせる監督になれるかもしれない。
『マクロスプラス』の時、作曲家の候補として菅野よう子の名前が挙がっていました。まだ菅野さんの知名度が低かった頃です。菅野さんが提出したデモテープには、とてもさまざまな音楽が収録されていた。たった一人で書いたとは信じられませんでした。それがとても印象的だったので彼女と組みたいと思ったわけです。
『マクロスプラス』の仕事のおかげで、菅野さんは真の天才で、どんなタイプの音楽もこなせることがわかりました。ですから『カウボーイビバップ』は音楽のジャンルがまるで違いましたが、菅野さんならやってくれると思ったんです。『マクロスプラス』は広い空を飛び回るようなスケールの大きな音楽という方向性でした。対して『カウボーイビバップ』は、ジャズやブルースが必要でしたが、それらは宇宙空間や宇宙船のシーンにそぐわないかもしれない。意図的に、ジャズやブルースと宇宙船をミックスしたかったわけですが、菅野さんなら可能にしてくれると思いました。
『マクロスプラス』で初めて菅野さんに会ったのですが、その姿は可愛らしい少女のようにしか見えなかった。みんな驚いて、彼女が本当にこの素晴らしい音楽を送ってきたのだろうか、ゴーストライターか何かが関わっているのではないかと疑いさえしたのです。しかし、レコーディングに立ち会ったら、彼女が一人で全ての作業をこなす姿を見てとても感動しました。それと同時に彼女の人柄はとても可愛くて興味深かったのです。それで『カウボーイビバップ』を作ったときに、菅野さんの人柄を元にしたキャラクターを出したのですが、その事は伏せていたので、彼女がどう受け止めたのかはわかりません。
・Netflixの新たな実写化について渡辺がどう考えているのか私はどうしても知りたかった。彼は以下のように答えてくれた。
実写版ですか、感想と確認のためにとビデオが送られてきましたが、最初のカジノの場面で、もう見続けるのが辛くなって止めてしまったので、そのオープニング場面しか観ていません。別物なのは歴然としていたし、自分が関わらないと『カウボーイビバップ』にはならないのだと気づいてしまったのです。私がやれば良かったのかもしれません。おかげで、オリジナルのアニメがさらに高い評価を受けるようになりましたが。
―――『サムライチャンプルー』『スペース☆ダンディ』新しいことに挑戦し続けること
・『カウボーイビバップ』を終えて、渡辺はまた同じようなことをやってほしいという注文をたくさん受けたらしい。幸いにも渡辺はそれを望まず、新たな創造の地へと足を踏み入れていった。
一度成功してしまうと、また似たようなものを作ってほしいという依頼が多くなるものです。この場合は『カウボーイビバップ』です。この手の要望はもう二十年以上も来ています。そうなる理由は理解できます。しかし、その方向では同じことの繰り返しにしかならないし、結局は飽きられて見向きもされなくなるでしょう。それに自分の中にはもっと多様なものが眠っているとも感じています。そうしたわけで、同じようなことは避けてきました。
素晴らしいもの、クールなものを作るためには、新しいことに挑戦して一から作り出すことが必要になります。それは創造性を発揮するためには極めて重要なことだと思いますし、今までやってきたことを模倣するだけでは良いものにはならないと思っています。ですから、新しいものを作るということを常に大事にしています。私がとても尊敬しているデヴィッド・ボウイも同じようなことを言っていましたね。彼は絶えず自分のスタイルを変え続け、新しいことに挑戦していました。
もともと私はチャンバラ映画の大ファンで、中でも『座頭市』シリーズは最高です。しかし、古ぼけたものを作るのではなく新しいアプローチをしたかった。それと、ヒップホップとサムライは似ているのではないかと感じていました。ヒップホップの重要な要素はサンプリングにあります。ミュージシャンは、古い音楽のピースを拾いあげては新しく作り変えることができる。だったら、古いチャンバラ映画のピースを新しい形で使えるのではないかと考えたのが『サムライチャンプルー』の出発点でした。それと、ラッパーたちはマイクを通じて一人ひとりが己を表現しますが、サムライたちも自分の刀でしか表現できない点で似ているように見えます。ムゲンのキャラクターデザインがラップミュージシャンに影響されているのはそのためです。こうしたコンセプトによって新しいチャンバラアニメが作れると考えたのです。
『スペース☆ダンディ』では、宇宙で80年代の音楽やディスコミュージックを使って馬鹿馬鹿しくてクレイジーな喜劇を作りたかった。その手のジャンルはやったことがなかったので挑戦してみたかったんです。ところが『スペースダンディ』を作っていた頃に公開された『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』がとても似たことをやっていたのには驚かされました。遠い未来でカセットテープを使うなんて、私にはまさにクレイジーな発想でしたし、誰もそんなことは考えつかないと思っていました。それが『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』では物語上で大きな役割を果たすのです。
それと『スペース☆ダンディ』のナレーションを依頼した声優は初代の『スタートレック』でカーク船長を吹き替えていました。日本のファンであれば、声を聞けばすぐに誰かわかったと思います。英語版でも同じようなことをしたのかは知らないのですが。
―――ハリウッドのプロデューサーの問題点と将来について
・『アニマトリックス』の制作は、決して順調ではなかったようだが、渡辺にとっては新しいことを学ぶ機会でもあった。
今はオリジナルの新作に取り組んでいるところです。最近はアメリカからの依頼がが多くて、予算も日本の二倍近くになっています。『アニマトリックス』からハリウッドの人たちと仕事をするようになりましたが、常に困難が付きまといます。彼らは最初のうちは「好きなことをやっていいよ」と約束するのに、それはリップサービスに過ぎないからです。
実は『アニマトリックス』でハリウッドのプロデューサーと大喧嘩になったことがあります。彼は自分が作品に関わっていることを示すために、くだらない注文をつけてきた。それがあまりに意味不明なので、私はすべて拒絶しました。残念ながら勝てるような状況ではなかったので、いくつか譲歩せざるを得なかった。私はこの苦い経験から学びを得ました。その後のプロジェクトでは、干渉しようとしてくる連中のあしらい方は上手くなりましたよ。そういう時は、締め切りの直前になってから細かい修正や調整をして送り返すんです。そうすると、やり過ごせることが多かったですね。日本にも、アメリカのようなプロデューサーがいますし、アメリカにも良いプロデューサーはいます。
最初の『アニマトリックス』のプロデューサーは、とても良い人でした。私の仕事を理解してくれたし、くだらない注文をつけてくることはなかった。ところが家庭の事情で辞めてしまったのです。後任のスペンサー・ラムという人は酷かった。あれを変えろこれを変えろと注文ばかりで、とても苛立つものだった。仮にそうした要求がウォシャウスキーの二人から来るのであれば、少なくとも『マトリックス』の産みの親のことは尊重したでしょう。新しいプロデューサーは何をしたと思いますか? 自分はウォシャウスキー兄弟の門番役であり、君の仕事は、自分が納得しない限り彼らには見せないと言ったんです。
だから、ロサンゼルスにレコーディング作業に行ったとき、もしプロデューサーに出くわしたら一発ぶん殴ってやるとチームには伝えておきました。結局、プロデューサーがレコーディングに立ち会わないというに前代未聞の事態になりましたね。
『アニマトリックス』の他のエピソードを手がけたピーター・チョン監督からは、仕事が終わった後で、こんな話を聞きました。例のプロデューサーは彼に百を超える注文をつけてきたらしい。チョンさんは凄く怒って辞めてやると言い出した。プロデューサーは期限と予算を守って作品を完成させる責任があったので、大慌てになって結局チョンさんの言いなりになったという。それを聞いて、私は卑怯な手口じゃないかと思ったのですが、それも参考になりました。つまり、ハリウッドのプロデューサーと仕事をするなら戦う必要があるのです。でなければ、自分のやりたいことは決してできませんから。