cinemania 映画の記録

cinemania’s diary

ビクトル・エリセは語る~映画の過去と現在、そして可能性~

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2014年、ビクトル・エリセ監督は、スイスのロカルノ国際映画祭で生涯功労賞を受賞した。8月13日、会場で催されたシンポジウムで映画について語り、聴衆からの質問に答えた。進行役は、旧友でもある映画評論家・大学教授のミゲル・マリアスがつとめた。

●司会
おはようございます。
私とビクトル・エリセとは長年の付き合いです。30年か40年にはなります。
彼は、もっとも尊敬する映画監督であるだけでなく、私がもっとも興味深い映画談義を交わした人物でもあります。
私たちが、かつてシネマテークで、溝口健二小津安二郎を観た帰り道で交わした会話を書きとめて置かなかったのが悔やまれます。彼らについて、ビクトルがしたような興味深い話は、他にあまり無いからです。
今日も、興味深い話ができるのではないでしょうか。

ビクトルに聞きたいのは、君の映画を知っている人、特に賞賛する人であれば誰もが問いかけるであろう質問です。
どうして、こんなに作品が少ないのでしょうか。
つまりは「もっと作って欲しい」ということです。クリエイターにとっては最悪の質問でしょうね。
作品を観終えてすぐに、「次はいつですか」と訊ねるのは、強欲ですし、恐ろしいことです。
映画を作るには何年もかかります。でも、観るのは2時間くらいです。ビクトルの映画なら、それほど長くはありません。
作ることと消費することには、何とも大きな不均衡があります。これは映画作家だけでなく、小説家や詩人などにも当てはまると思います。彼らが何年も詩と格闘してきても、それを読むのは数分です。
これは、恐ろしい質問であるわけですが、しかし、ビクトル・エリセに対しては何度も浮かんでしまいます。
実は、この数日間で、彼の作品のほとんどを観てきました。決して多くはありません。やはり最初の問いかけはこれにしましょうか。おそらく単純な回答にはならないでしょう。

●エリセ
確かに、映画作家として、これまで何度も聞かれてきた質問です。言わば、基本的な質問ですね。
私には、わかりやすい回答があるわけではありません。
説明するならば、個人的な理由に加えて様々な事情が絡んでいるのだと思います。映画産業にも関連しています。
ただ、この質問は、要はプロダクションに関してのものですよね。どうやって製作するのかと。
しかし、私にとって映画とは、職業という事実というよりも、むしろ実存的な経験なのです。今でもそうです。

思うに、映画のプロたちは、日々、自分の仕事を実践しています。
しかし、彼らにとって映画は真実としては存在していないのです。
どういう意味かと言えば、映画とは、私にとっては人生の絶対的なバックボーンであるということです。日常生活においてもです。
映画とは、世界を探求する根源にあるもので、それに身を捧げることで、映画作家は映画を撮らないときでも、そうあり続けるのです。スペインでは、闘牛士は、闘牛場で戦っていないときも闘牛士だと言います。彼らは人生の終わりまで闘牛士であり続けるのです。
映画監督にとって、観客の経験こそが本質的なものです。ミゲルや私、そして多くの人々の人生において残るものは、観客としての経験であるという重要な事実を忘れてはなりません。
映画とは、決して他者と遭遇することを抜きにしては存在し得ないのです。私としては、「観客」や「消費者」ではなく、「隣人」という言葉を使いたいと思っています。似た者同士であり兄弟なのです。
おそらく心の奥底で、ジャイマ・ジル・デ・ビエドマが言ったことが響いています。亡くなったスペインの詩人ですが、彼は「自分は詩人になりたいのではない。詩になりたい」と言ったのです。
これが、今の質問に対する回答として納得してもらえるかはわかりません。 しかし、私にとって映画とは、実存的なものなのです。なぜなら、映画を通して私は人生の本質的な側面を見出しているからです。

●司会
今、ビクトルが述べた事と大いに関係のある事なのですが、映画の見方というものが、長い歳月の中で変わってきました。
あなたが映画学校で最初の短編映画を作ってから、最初の長編映画を作るまでの間にも変化がありました。(注:1961年の『テラスにて』から1973年の『ミツバチのささやき』の頃)
ロベルト・ロッセリーニらは、それを「映画の死」と呼んでいました。こうした表現は、やや時期尚早であり、大げさなものであったかもしれませんが、たしかに起こったのです。
それまでの60年以上にわたって、映画は20世紀の芸術であり、卓越した大衆芸術でもありました。
舞台などよりも安価であり、世界的な大恐慌の中、失業者やホームレスの避難所となっていました。彼らは悪天候から身を守りながら映画を見続けたのです。
はっきりとしたことは言えませんが、1963年頃に、何かが起きました。少なくとも1960年から1970年の間に変化が生じ始めたのです。

最も本質的な変化は、映画は、すべての人々のために作られるのではなく、断片的かつ区分化された市場のために作られるようになりました。
突如として、10代の若者向けの映画館ができたり、シニア向けの映画館ができたりしました。
また、アート系の映画館もできました。より洗練された映画が求められました。
それまでは、豊かで繊細な素晴らしい映画もまた、普通の映画だったのです。
他の映画と同じように製作され、同じ映画館で公開され、一般の観客を対象としていました。

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『去年、マリエンバードで』

しかし、アントニオーニや小津の映画は、同時期に作られていた娯楽映画とは異なるものでした。
例えば、私は非常に不思議な出来事だったと思うのですが、スペインでは、アラン・レネの『去年マリエンバートで』が、スペイン語に吹き替えられ、大衆的な映画として何の問題なく公開されました。
今のフランスで、アラン・レネがプロデューサーを探したとしても十分な資金が得られるとは思えません。
テレビ局の支援がなければ、映画を撮影するのが難しい時代です。うまくいって、映画祭で上映されたり、小さな映画館にかかることになります。
普通の観客は、その作品に触れる機会はないでしょうし、気に入るかどうかもわかりません。
これは、映画を鑑賞する方法の根本的な変化でした。それは同時に、映画を作る方法にも影響を与えたと思います。
ビクトルに訊ねたいのですが、このような変化が起きている事に気づいていたのでしょうか。

●エリセ
この50年で大きく変わったのは、映画だけではありません。目まぐるしく変化したのは世界の方なのです。それは、ほとんど人類学的な次元にまで及んでいます。映画を作る方法、消費する方法も変わりました。社会的関係や支配関係が変わったのです。
テクノロジーの変容は目まぐるしいものでした。絵画、音楽、文学など、他の芸術が同じ進化を遂げるのに何世紀もかけたことを、映画はこの100年で消費してしまったと言えるでしょう。
そのため、映画は幼子だとか、老人だとか、あるいは早熟の子供であると言われてきました。
今日、人々は映画についてではなく、オーディオビジュアルについて語っています。私にとって、映画はオーディオビジュアルとは異なるものです。しかし、今ではそのように語られています。
映画は、その起源である約100年前から考えられてきたように、常に絶滅の危機に瀕しています。
だからこそ、私の世代の人たちが語ることが、哀愁を帯びているのだと思います。
私はこの嘆きの壁に加わりたくはありません。
なぜなら、私たちの世代が自問してきたことは、今の若い人たちも考えなければならないからです。
何をすべきか、何を語るべきか、人間同士の関係はどうあるべきか。
私の世代がそうであったように、こうしたこと全てが宙に浮いたままなのです。

何が起こったのかは書籍に記されてはいますが、時には、自分の経験として、シンプルな証言として語るほかない事象もあります。
なぜなら、私が見たものの中には、消滅しつつあるものや、すでに雲散霧消してしまったものがあるからです。
失われてしまった事柄について語ることは、私の世代の映画作家にとって重要なことだと思います。嘆いているわけではありません。
私は、経験をカテゴライズしたくはありません。
私の場合、子供の頃は当然のことながら、偉大な20世紀の大衆芸術であり、もっとも非凡で、おそらくは最後の芸術である映画を経験してきました。
これはミゲルの言っていたことです。映画の歴史の中で、非凡な時期があったのです。
チャップリンを例にして考えてみましょう。
チャップリンの映画を、世界中の観客が言葉に頼らずに経験しました。
同じシーンに全く同じように反応する。同じ笑顔、同じ笑い声、同じ涙で。
これは驚くべきことでした。私の世代における大きな損失だったのは、偉大な大衆芸術としての映画なのです。
今日、映画は大量消費の対象となっています。テレビに支配されているのです。
根本的な変化がおこり、私のような映画作家たちは、その余白で仕事をしています。
私たちが周縁にいる必要があるからではありません。システムが私たちを疎外しているのです。

●司会
この問題は、大変に興味深く、また私の経験が役に立つと思います。映画作りを目指す生徒たちが抱えている問題ですね。
今、私は映画を作りたいと思っている学生たちと一緒にいるのですが、現状はどうなのかと聞かれます。
彼らに楽観主義を授けることも、余計な励ましを与えることもできません。
私は彼らに本心で告げます。もしも君たちが、本当に映画を作りたいのであれば、それは、映画監督になることではないと。
マドリッドで『勝手に逃げろ/人生』が上映された際のインタビューでの、ゴダールの言葉を思い出します。
彼は、映画を作りたいと思っていない連中が大勢いると言っていました。映画監督になりたいだけだと。
それらは同じではありません。ここが重要だと思います。

だから、私は彼らに言うのです。もし、君たちが映画を作りたいのであれば、今はとても簡単だと。
かつて、映画は高くつくものでしたが、今ならお金がなくても映画を作る方法があります。
問題は、映画で生計を立てるのは非常に難しいという点にあります。
映画を作ることはできても、それを他人に観てもらおうとすることは、配給や上映は、はるかに難しい。
それこそが問題であり、何かが変わってしまったのだと思います。

私は、映画とは最初から、知識を得るための手段であり、コミュニケーションの手段であったと考えています。
人は映画を作ります。私は何も作っていませんが。
でも、誰かに見せようと思って映画を作るのです。自分で見るためではなく、誰かに見せるために。
さらに今日では、何をどう作るかだけでなく、何のために作るかという事も難解になっています。

●エリセ
段取りがわかりませんが、そろそろ質疑応答に移りましょうか。

●司会
基本的な問題はもう十分に出尽くしたと思います。
質問をしたい人は挙手してください。

●質問者A
ビクトル、霊魂とは何でしょうか。

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ミツバチのささやき

●エリセ
それは、私の最初の長編映画ミツバチのささやき』で、二人の姉妹が自らに問いかけた質問です。正確には、幼い方のアナが姉に霊魂とは何かと訊ねたのです。
私は質問を抱えていますが、回答は持っていないのです。アナのようにね。

●質問者B
『マルメロの陽光』について、質問があります。あなたの長編映画の中で、もっとも衝撃を受けた作品です。
形式、外観、構想、色彩、光、時間。この着想やプロジェクトがどのようにして生まれたのか、非常に興味があります。
アントニオ・ロペスとはどのような接点があったのでしょうか。そして、撮影中にどのような困難がありましたか。

●エリセ
私はいくつかの映画を作ってきましたが、『マルメロの陽光』は、これまでの作品とは別物と考えていいでしょう。
これはドキュメンタリーと考えられています。私は、ドキュメンタリーとフィクションの間に実質的な違いはないと言わざるを得ません。
考えるに、これは映画史家による区分けです。なぜなら、リュミエール兄弟の映画は、明確にドキュメンタリーとして始まったからです。
しかし、そこには大きな誤解があります。
史上初の映画である『工場の出口』において、リュミエールは異なるバージョンを撮影していました。3種類あって、それぞれ違いがあります。
リュミエールは、映画史における最初の作品から2つの基本的な要素について考えていました。
時間と空間です。
そして、時間をコントロールするために、工場から出てくる労働者たちを撮影しました。
彼らは労働者たちを造形物のように、まさに映画のエキストラのように演出したのです。
私がドキュメンタリーとフィクションの間に実質的な違いを設けていない理由がお分かりでしょうか。
『マルメロの陽光』は、脚本を一切用意せずに作った映画です。
私たちは、映画を作るというアイデアと言いますか、ある経験をするというアイデアを持っていました。
火曜日から土曜日にかけて撮影していました。その目的は、画家が樹木を描く姿に立ち会うことでした。

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『マルメロの陽光』

かつて私は、アントニオ・ロペスマドリッドの大きな街並みを描いている場所に居合わせたことがありました。(注:実現しなかったテレビ用のドキュメンタリー企画のことと思われる)
彼が樹木を描くところを見たことは全くありませんでした。そして樹木は、時間とともに成長していく存在です。
ですから、映画作家としての最初の役目は、観察者になることでした。
しかし、私の中で映画を作る理由が生まれたのです。
商売のためではないし、同じような映画を繰り返すためでもありません。別に私はそれらを否定はしませんが。
しかし、実存的な深い動機とは、次のようなものです。
私は夏の間、画家の仕事に同行して、大きな街の風景を描いている彼を見ていました。
一日の仕事が終わると、私たちはおしゃべりをしました。
あるとき、繰り返し見る夢の話になりました。アントニオは私に、彼の人生で最も繰り返し見る夢は、マルメロの木だよと言いました。
そして、その夢がどんなものだったかを教えてくれました。まあ、そういうことがあったのです。
秋になって仕事は終わりました。別れの挨拶をしているときに、私は画家に訊ねました。アントニオさん、これからどうするおつもりですか。
彼はこう答えました。毎年、夏の仕事が終わると、私は庭で自分が植えた木を描くんだ。秋の始まりとともに。
「何の木ですか」と聞くと、「マルメロの木だよ」と教えてくれました。
その時、私は夢の話を思い出し、そこには秘密が隠されていると感じました。なぜこの画家は、秋にその木を描かなければならないのか。
その夢の意味を探るために映画を作りました。
そして、映画を作った後に発見したのは、マルメロの木とは彼の幼年期だということでした。
困難は大きかったですが、しかし、この映画に最初から献身的に取り組んでくれた真の芸術家たちと共に仕事ができたことは大きな幸運でした。
撮影のための資金はすべて、この映画に関わった人たちが出してくれました。従来の商業的なプロデューサーと組んでいたら、絶対に作ることはできなかったでしょう。

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『10ミニッツ・オールダー 人生のメビウス

●質問者C
ルイジンの短編映画について少し話していただけますか?
どのようにして作られたのでしょうか?
どんな夢があなたを導いたのでしょうか?

●エリセ
それは『10ミニッツ・オールダー 人生のメビウス』のことですね。この映画は、世界中の監督と一緒に作ったものです。私の場合は、ジム・ジャームッシュヴェルナー・ヘルツォークスパイク・リーチェン・カイコーらと一緒でした。それぞれが10分間の映画を作らなければなりませんでした。それ以上は駄目なのです。
メインテーマは「時間」でした。時間というのは極めて抽象的な概念です。
私たちはそれが何であるかを知っていますが、表現するとなると難しい。
人間が生活を営むために発明した、さまざまな日常生活を整理するための数字とは違ったものです。
それは、とても抽象的でコンセプチュアルなテーマでした。
私はこの映画をドキュメンタリーのように見せようとしました。
登場人物はすべて職業俳優ではありません。彼らはロケ地で選びました。 主人公のルイジンは、撮影した村で、15年から20年ぶりに生まれた赤ちゃんでした。ほとんどが地元の方言を話しています。
私は、時間という抽象的なテーマを扱いましたが、そこに立体感を与えて、まるでドキュメンタリーに見えるような形にしました。
しかし、子供たちについては、全てが私の脚本にしたがってもらっています。

●質問者D
こんにちは、ビクトル。あなたを名前で呼ばせてください。たとえ、お互いに知らなくても。ここにいる皆さんは、あなたの映画と密接に結びついていると感じています。
映画作家のスピリットは、それまで観てきた映画や、夢中になった映画からうかがえると思います。
私の場合は、フェリーニの『8 1/2』と『ミツバチのささやき』でした。
ミツバチのささやき』では、少女が『フランケンシュタイン』を観ますね。とても美しい映画ですが、彼女は死に取り憑かれます。それは人生に忍び込んだ謎です。
あなた自身は、こうした果てしない謎を残した映画はありますか。

●エリセ
それについて話すのは難しいですね。たくさんあります。ここからスペイン語で話させてください。
私は、初めて映画を観た経験について語るために『ラ・モルト・ルージュ』という映画を捧げました。
私が6歳の頃です。それは映画史に残るような作品ではありませんが、しかし、私にとっては根幹を成すような映画でした。
どのような意味で根幹となったのでしょうか?
奇妙なことに、謎は映画の中にはありませんでした。いったい誰が謎の衣装を着ていたのかということなのです。

(注:エリセが初めて観た映画は、ミステリー『緋色の爪』で、制服姿の郵便配達夫が殺人事件の犯人)

謎は時に、とても単純な日常に潜んでいます。
その映画では、ただの郵便配達員でも邪悪さのシンボルになり得ることが語られています。
私は生まれて初めて映画を観て、恐怖を感じました。本当に怖かったです。
私は、映画館で映画を観ることで、人生についての恐ろしいことを発見したのです。
それは死ではありません。私は死について、すでにある考えを持っていましたから。
人生は限りがあって永遠ではないということです。
私が発見したのは、人は他人を殺すことができるということです。これは私にとって最大のスキャンダルでした。
しかし、どのような次元のスキャンダルなのか。
子供の頃は、スクリーンで起こっていることは本当なのだと信じていました。
事実とフィクションの区別ができなかったのです。

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『ラ・モルト・ルージュ』

振り返って客席を見わたしましたが、犯罪というスキャンダルを前にしても、彼らは無関心な様子で、受け身のままでした。
そして少年は、彼らが自分の知らない秘密を知っていると思ったのです。それが無関心な態度の説明になると。
つまり私は、その虚空から、初めて世界のあり方を認識することになったのです。
避けようのない無邪気さの喪失とともに。
根幹を成す映画と呼んだのは、別に偉大な作品だったからではありません。

●質問者E
あなたは、『ラ・モルト・ルージュ』の中で、「映画という国」について語っていますね。どういうものなのか、もう少し話していただけますか。

●エリセ
それは、地図には載っていませんが、私が所属し、訪れることを最初から許された国です.。
映画の国に入国するのに税関を通過する必要もありません。誰からもパスポートの提示を求められずに、私は、その世界の市民になりました。
なぜなら、私はスペインに住んでいたからです。
1940年代に戦争が終わると、国境が閉ざされ、自由は失われ、街には恐怖が漂っていました。
この国はひどい内戦の結果に苦しめられました。
映画のおかげで、私は世界の市民になることができました。
世界の市民。これは並外れたことなのです。
映画と呼ばれる国は地図には載っていませんが、しかし実在しています。、
その国の市民であれば、例えば日本の映画監督と出会ったとしても、共通の話題で盛り上がることができます。
私たちは全く異なる文化を持っていますが、映像と音の芸術という共通の言語を持っているのです。なんて、素晴らしいことでしょうか。
これは、ジャン・ルノワールがいつも語っていたことです。彼はインドに出かけていって、『河』を作ることができたのです。インドでですよ。
それこそが、かつて映画が確かに持っていた素晴らしいもの、世界に向けて開かれた窓という原点です、
リュミエールの技術者たちが最初にしたことは、あらゆる国に行き、人々を撮影することでした。
創造の素晴らしさを感じる瞬間こそが原点でした。
かつて映画とは、そのような街だったのです。今では廃墟なのかもしれませんが。
しかし、廃墟の中にも真実は残っているでしょう。

●質問者F
あなたの話をうかがっていて、興味深く感じたのは、映画監督として大衆に寄り添うことの大切さです。
私たちの歴史を伝えるためには、彼らの身近にいて、身の回りで起こるあらゆることを意識することが重要だということです。
若い映画作家にとっては、少なくとも私の個人的な経験では、今日の社会を反映したリアルな物語は、とても困難です。
あなたは、映画が道を踏み外しているとお考えのようですが、映画をそのままにしておくためには、何をすべきでしょうか。

●エリセ
ミゲルが、現在における可能性について言及しましたね。映像や音を記録することは、非常に安いコストでできるようになりました。
マスメディアが見せようとはしない情報を、映画を用いて伝えることができるのです。
主なマスメディアは、巨大な多国籍企業によって支配されています。彼らにとって都合の良いものを寄こしてくるのです。
権力者の手中にあるマスメディアは、現実を再構成しています。それは大衆統治のための手段であり、この星を覆い尽くして、ますます全体主義化しています。
それゆえに、映画には、時として、それらとは異なるものを示すという役割があります。
異なったものを伝え、異なった考え方に命を吹き込むのです。とても価値のあることだと言えるでしょう。

それは、ソーシャルネットワークによって囲い込まれた今日の社会における重要な役割となっています。
この仕事はとても価値があるもので、私は敬意を払っています。
映画について語るとき、もはや、かつてと同じ言葉で語ることはできません。
以前は、映画を芸術として語っていました。それは私たちの世代の議論でした。
今は、とても不安定な時代を生きています。あまりに不安定で切迫したなかで、このような役割を果たすことは避けられないのです。

ポルトガルに映画を撮りに行ったときも、なにか個人的なモチーフを持ち込んだわけではありません。
そこで起こっていることを理解しようとしたのです。
私は、10年前に閉鎖された繊維工場の労働者たちと映画を作りました。彼らは失業者です。
これはヨーロッパ全体の問題でもあります。ひどい話です。
私はこの映画をそのために捧げました。
なぜなら、今は急を要する時代だからです。
すべての若者がそうであるように、私も芸術家の神話をもて遊んでいました。私が信奉して、同類のようなふりをしていた監督はムルナウです。
もちろん、ムルナウは偉大な映画監督で、彼のようになれるわけではありません。
そして、少しずつ彼が生きていた時代について理解していきました。
私の現在の認識は、このようなものです。
今日においても、とても興味深い映画はありますが、配給による限界があります。
すべての配給網はコントロールされているからです。
北米の映画マーケットでは、400から500個のフィルムしか作られません。つまり、それだけの劇場でしか上映されないということです。

それは侵略の一形態です。私たちは、それに抗って何ができるのでしょうか。
ソーシャルネットワークは、何か別のチャンネルを探す助けになります。
しかし、映画作家の使命とは、世界中に向けて発信することです。
私は友人のために映画を作ったことはありません。観客を分断しようとしたこともありません。
ただの妄想かもしれませんが、私はすべての人に語りかけることは可能だという考えを常に抱いています。
私の映画は、誰にでも理解できるようなものになっていると思います。
誰もが、さまざまな作品にアクセスできるようになれば、何かが変化していくでしょう。
ですが、それは教育に端を発する社会問題です。教育とは不可欠なものです。
もし、小学生の頃から映画の見方を学んでもらうのでなければ、二十歳を過ぎても映画の選び方がわからず、テレビからの指示にしか従わないのであれば、どんな市民になってしまうのでしょうか。
これは根本的な問題ですし、政治的な問題でもあるのです。

質問者G

あなたはポルトガルで撮影した映画について話されましたが、撮影するにに至った経緯をもう少し知りたいと思います。
あの工場で何を見つけたのか、その場の人々との関係はどのようなものだったのでしょうか。

●エリセ
私はギマランイスの財団に招待されました。ポルトガルの北部に位置する都市です。2012年に欧州文化首都に指定されたことを記念して、委員たちは、アキ・カウリスマキペドロ・コスタ、マヌエル・デ・オリヴェイラ、そして私に、映画を作るよう呼びかけました。オムニバス映画です。

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『割れたガラス』撮影中のエリセ

私はポルトガルの文化を、とりわけ映画文化を尊敬しています。いつかそこで仕事をする機会があるだろうと思っていました。
ポルトガルのことはよく知っていたつもりでしたが、その街については、そうではありませんでした。
旅をするときによく知ろうとするなら、歩くこと、人々を観察すること、実際に話すことです。
ガイド役は、美術館や過去の出来事など、公式化された素晴らしい財産を知ってもらうように努めています。そこにはたくさんの美しいものがあります。
しかし、映画作家たちの視線は、それらとは異なる現実に対して、より注意深く向けられているものなのです。
何日もかけて人と会い話しました。ある朝、その街のとても古いカフェでコーヒーを飲んでいました。外は今日のような雨が降っていました。
そのカフェには、たくさんの男たちがいました。無言で雨が降るのを見ているのです。みんな働き盛りの人たちでした。ということは、朝の11時なのに、仕事がないということです。
カフェの店主の気配りは驚嘆すべきものでした。なぜなら、注文もしない人たちに雨宿りをさせていたのだから。コーヒーを飲んでいたのは数人でしたが、その場にいたのは、30人から40人の男たちです。
彼らはただそこにいて、黙って雨を見ていました。仕事のない人たちです。これは強靭なイメージでした。今、この場所の生活を象徴している瞬間だと思いました。決して過去に属する歴史ではなくて。
ポルトガル北部のあの地域は、何世代、何世紀にもわたって、繊維産業に支えられてきました。そして、その大きな工場はすべて、次第に姿を消し、解体されてしまいました。
なぜなら、工場は安価な労働力を求めてアジア大陸に移ってしまったからです。そこには、社会的権利を持たない奴隷のような体制があります。
労働力の供給源を失ったことで、ポルトガル北部のこの地域の富はすべて失われて、人々は奈落の底に落ちたのです。

私は、廃墟となった工場を探しに行きました。そこで、映画に登場させた工場を見つけました。20世紀初頭、ヨーロッパで2番目に重要だった繊維工場です。その場所で、かつて工場で働いていた老人たちに話を聞いたのです。
彼らは、自分たちの人生と経験、自分たちの人生から得たものや、労働者の生活はどうだったのかについて話してくれました。
私は、彼らの中から選び抜いた人たちと共に、映画に使用するためのモノローグを執筆しました。
映画の中で語られている言葉は、あらかじめ準備しておいたものです。それが、ある瞬間を捉えるための手段だと私は考えたのです。
自分が意図したことは、実現できたと思っています。それは、ポルトガルを深く掘り下げた映画を作ることでした。

●質問者H
ポルトガルの話をされましたが、スペインの政治的腐敗を映画化しようと考えたことはありますか。

●エリセ
(少し笑って)わかりません。考えたこともありません。何か急を要することらしく、連日報道されていますね。よくわかりませんが、メディアで毎日話題にするような大きな醜聞ではないのかもしれません。(注:スペインでは選挙の時期だった)
しかし、別の視点から見るとどうでしょう。
例えば、ジャン=リュック・ゴダールは、もしも、アウシュビッツ強制収容所をテーマにした映画を作るのであれば、当時のアウシュビッツの官僚組織で働くタイピストの生活を撮るだろうと言っています。国家の視点ではなく、すでに知られていて、日々語られてきた視点です。
しかし、一般市民とは何かといえば、この腐敗した体制と共存し容認することで、それをどうにか完成させている人々のことなのです。

●質問者I
あなたがポルトガルで撮った映画では、登場人物の一人が「喜びは知っているが、幸せは知らない」と話していますね。
彼とあなた、どちらがそう言っているのでしょうか。
それから、あなたとアラン・レネはどのような関係なのでしょうか。アウシュビッツを描いた『夜と霧』についてはどう思われますか。

●エリセ
それ以上、何を話せば良いのでしょうか。私の性分として、自分の映画について解釈してみせることはありません。
なぜなら、意図したものを映画の中に見い出せないのであれば、それはもう永遠に見つからないからです。
どういう意味かというと、私たちは解説を強制されているのです。映画作家たちは、宣伝のために、自分の映画について何度も何度も話すことになる。反復は、ありきたりなレトリックを生み出します。だから、私は語らないようにしています。
もしも、誰かが詩を作ったとして、その詩は何なのか、どのように説明すればいいのでしょうか。
それはただ存在しています。花はその香りを保たなければならない。香りを失ってしまったら、それはもう花ではありません。
大抵の場合、求められているのは芸術の剥製なのです。作品そのものよりも、作品が社会に何を与えたのかが重要視されるのです。

作品を見極める目を持たないのであれば、品質の悪いテレビ画面を通して見るのと変わりません。今では、画面を素早くスキップしたり、速度を変えたりして見ることができるようになりましたね。それは単に眺めているだけなのです。

アラン・レネの映画についてですが、私は遅ればせながら観ることができました。スペインでは上映されていなかったからです。それは最も重要な映画のひとつであり、素晴らしいドキュメンタリーです。

●評論家
本日は、どうもありがとうございました。

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『Mank/マンク』は、いかに歴史的事実を改変したのか――マンキーウィッツの英雄化とオーソン・ウェルズの矮小化

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 デヴィッド・フィンチャー監督の『Mank/マンク』は、実在の脚本家ハーマン・マンキーウィッツの伝記映画である。物語は、彼が代表作である『市民ケーン』の脚本を執筆していた1940年3月から5月にかけての出来事が中心となり、そこに1930年代のさまざまなエピソードが回想として挟み込まれていく構成をとっている。
 本作の企画を知って最初に思ったのは、これはオーソン・ウェルズに対して批判的な内容になるのだろうなという事だった。『市民ケーン』の脚本は、マンキーウィッツとウェルズの連名となっているが、以前からマンキーウィッツは、映画のアイディアは自分のものであり、脚本は一人で書いたと主張し、ウェルズと対立していた。この議論が再燃したのは、1971年に映画評論家のポーリン・ケイルが「ニューヨーカー」誌に発表したエッセイ「Raising Kane」によるもので、ケイルはマンキーウィッツを擁護する立場を取り、ウェルズを批判している。この記事は大きな反響を呼び、さまざまな反論が書かれた。後に、脚本の原本が調査され、現在ではウェルズが脚本に関与していたことは事実として認められている。にもかかわらず、ウェルズがこの件で不当に振る舞ったというストーリーは、その後もくり返し語り続けられてきた。

『Mank/マンク』の主なテーマは、映画『市民ケーン』の脚本は、マンキーウィッツの1930年代における、さまざまな政治的失望が色濃く反映されているというものである。この主張のために、映画では、オーソン・ウェルズの功績は無視されるとともに、マンキーウィッツの政治的な態度も単純化されている。テーマに合わせて、多くの歴史的事実が改変されているのである。以下、簡単にファクトチェックを行ってみよう。

****

・1940年2月、主人公のマンクが、ヴィクターヴィルの砂漠にある別荘に、脚本の執筆のために宿泊する。同行するのは、秘書のリタ・アレクサンダーと、お目付け役のジョン・ハウスマン。映画では、ハウスマンは別の建物に宿泊し、別の作業をしている事になっているが、彼の回想によれば、マンクと同じ別荘で寝起きし、脚本作業にも関わっていた。マンクが単独で脚本を執筆したことにするための脚色だろう。

オーソン・ウェルズは、マンクに対して、90日の執筆予定を一方的に60日に短縮させているが、そのような事実があったという資料はない。

・ウェルズは、電話で『闇の奥』という映画の準備中であることをマンクに告げる。実際には、『闇の奥』は、この時点では製作中止になっていた。そもそも『市民ケーン』は、『闇の奥』の代わりに急遽企画された映画なのである。ウェルズ自身は、この頃、マンクとは別に自分も『市民ケーン』の脚本を並行して書いていたと主張しているので、別の映画に関わっていることにした方が、マンク単独執筆説の信憑性が増すと判断したのかもしれない。

・マンクは、秘書のリタに脚本を口述筆記させる。リタはすぐに、この脚本がウィリアム・ハーストをモデルにしている事に気づく。この挿話はポーリン・ケイルの「Raising Kane」に登場するが、そこでは1925年の出来事とされ、相手もマンキーウィッツ家でベビーシッターをしていたマリオン・フィッシャーなる人物である。ケイルは、マンクが『市民ケーン』以前からハーストをモデルにした脚本を構想していたことを示す証拠として、この証言を紹介している。

(『Mank/マンク』は、「Raising Kane」を実質的な原作と呼んで良いほどに、多くの挿話を、ここから採用している。しかし、このエッセイは発表当時から、その偏った内容が批判されており、現在では、その事実関係をめぐる記述の多くが否定されている)

・回想シーン。1930年のハリウッド。マンクが友人のチャールズ・レドラーに「ここなら数百万ドルが掘り返せるし、しかも競争相手は馬鹿ばかりだ(MILLIONS ARE TO BE GRABBED OUT HERE AND YOUR ONLY COMPETITION IS IDIOTS. DON’T LET THIS GET AROUND)」と、脚本家になることを勧める電報を送っているが、実際には1925年にベン・ヘクトに送った文面であり、ヘクトの回想録『A Child of the Century』で紹介されている。(映画では、同じ文面を他人にも送ったと解釈している)

パラマウント・ピクチャーズで、マンクは脚本家のベン・ヘクトや監督のジョセフ・フォン・スタンバーグらと共に、社長のデビッド・O・セルズニックに「フランケンシュタインと狼男を合わせたような」ホラー映画のプレゼンテーションを行う。しかし、当時そうした企画があったという資料はなく、一流の脚本家であったヘクトらが、モンスター映画に関わろうとしていたとも考えづらい。

・マンクは、撮影現場に迷い込み、アーヴィング・G・タルバーグにルイス・B・メイヤーを紹介され、さらにマリオン・デイヴィスと会話を交わし、ウィリアム・ランドルフ・ハーストと出会う。主要人物が都合良く一度に出揃うのは創作だろう。ここでマリオンは、火あぶりになる場面を撮影しているが、彼女の評伝『CAPTAIN OF HER SOUL:The Life of Marion Davies』を執筆したララ・ガブリエルによると、マリオンの出演作品52本のどれにも該当する場面はない。

スコット・フィッツジェラルドがマンクの事を「破滅した男」と呼んだという挿話は「Raising Kane」で紹介されているが、それを弟のジョセフ・L・マンキーウィッツが兄のマンクに電話で伝えたというのは創作と思われる。

・弟は兄に、ウィリアム・ハーストをモデルにした映画をウェルズが作っている情報が出回っていることを告げるが、この時点で情報が外部に漏れていたとする証言や資料はない。実際には、映画の完成直前にマスコミ向けに秘密の試写会を行う予定が漏れたのがきっかけだった。

・1933年、ハースト邸のパーティでマンクがヒトラーの台頭を批判している。彼が反ヒトラーであったのは事実であるが、一方で、反ユダヤ主義者のリチャード・リンドバーグの支持者でもあり、アメリカの参戦に反対していた。ジョセフ・マクブライドは、『Mank/マンク』は彼の複雑な政治的立場を単純化していると指摘している。

・マンクとマリオン・デイヴィスは親交を深めていくが、実際に二人がこうした関係にあったという証拠はない。マリオンの愛人であるハーストは、彼女に禁酒をさせようとしており――映画でもそれを暗示する場面がある――酒乱のマンクを彼女に近づけたがらなかったと言われている。
 
・ハウスマンとマンクは「クビは未経験だ」「俺はクビばっかり」という会話を交わすが、実際には、この直前にハウスマンはウェルズと『闇の奥』の脚本をめぐって対立し、4年間にわたる協力関係を解消している。

・マンクは、最初の6週間で第1幕91ページしか脚本をかけずハウスマンから抗議を受けているが、実際には第1稿250ページを完成させている。またハウスマンも執筆に協力していた。直後、オーソン・ウェルズからの電話で、ウェルズがマンクが今書いている脚本の内容を知らないことが示されるが、実際には、マンクは原稿を書き上げた部分からウェルズに送っていた。そもそも、二人は事前に長時間におよぶミーティングをおこなっており、ウェルズはヴィクターヴィルを訪問したこともある。

・看護師のフリーダが、マンクは英雄だと話す。当時、看護師がいたのは事実だが、フリーダという人物は創作である。彼女は、マンクの支援のおかげで、自分や家族を含めた村人100人以上がドイツから逃れて来られたと言う。これは、リチャード・メリーマンの『Mank:The Wit, World and Life of Herman Mankiewicz』やシドニー・ラデンソン・スターンの『The Brothers Mankiewicz』といった評伝の挿話が元になっている。当時、父親のフランツがベルリンで生活しており、アメリカへの亡命者の保証人になってほしいと頼まれ資金援助をしたと発言している。事実関係は不明だが、同様の支援を行っていたウィリアム・ワイラー監督が13人の保証人になっていたという別の挿話を踏まえると、少なくとも100人以上を救ったという話は誇張だろう。

・同じ場面で、フリーダは、マンクが反ナチス映画の脚本を書いても映画会社が作りたがらなかったと話す。これは事実に基づいており、マンクは、1933年にサム・ジャッフェと共に、『The Mad Dog of Europe』というヒトラーを風刺した映画を構想していた。しかし、アメリカ映画製作配給業者協会(MPAA)や、ユダヤ人によって組織された反名誉毀損連盟からの反対を受け頓挫している。かえって国内の反ユダヤ主義者たちを刺激させて逆効果だと見なされたのである。

・マンクは弟から脚本家組合の活動に協力を求められるが断る。実際にも、組合活動に反対する新聞広告を出すなど、労働者の権利活動には批判的だった。

・MGMの社長ルイス・B・メイヤーは、従業員からフランク・メリアム候補の選挙資金を徴収する。マンクにも協力を求めるがマンクは断る。この選挙戦を扱ったグレッグ・ミッチェルのノンフィクション『The Campaign of the Century: Upton Sinclair’s Race for Governor of California and the Birth of Media Politics』では、寄付を拒否した作家たちの名前を特定しているが、マンクは含まれていない。同書における別の作家のエピソードを流用したのではないかとも指摘されている。

(『Mank/マンク』では、マンクが次第に左翼のアプトン・シンクレア候補に肩入れするようになっていくが、弟のジョセフとは異なり、実際にマンクがシンクレア候補を応援していたという証拠はない)

・タルバーグが、アプトン・シンクレアを落選させるためのフェイクニュース映画を製作したのは事実だが、そのきっかけを作ったのがマンクの「君はキングコングが巨大でメアリー・ピックフォードが処女だと信じさせることができる(You can make the world swear King Kong is 10 stories tall and Mary Pickford a virgin at 40)」という軽口だったという挿話の真偽は不明。

・マンクは13日で脚本をさらに200ページ以上書き上げたことになっているが、実際には第1稿をもとに約40ページ分に修正を加えている。「完成した脚本を書き直した」とするよりも「未完成の脚本を書き上げた」とした方が劇的という判断だろうか。

(なお、この場面において、『Mank/マンク』の上映時間のほぼ半分に到達しており、映画『市民ケーン』の脚本は、ここで一応の完成をみたことになっている。実際には、ここからウェルズによる大幅な改稿作業が約2ヶ月にわたって行われ、マンクの付けた『アメリカ人』という仮題も、ウェルズが改名するのだが、この映画では、そうした過程は全く描かれない)

・マンクは、シェリー・メトカーフが監督したフェイクニュース動画を見て愕然とし抗議する。しかし、マンクの評伝作家のシドニー・ラデンソン・スターンは、実際には彼自身がフェイクニュースの製作に関与していた可能性もあると指摘している。また、シェリー・メトカーフは架空の人物であり、実際に撮影したのは、フェリックス・E・フェイスト・Jr監督である。

・マンクがフェイクニュースの試写を見てすぐ、マリオン・デイヴィスがMGMからワーナーに移籍することを知る。マンクは彼女に、ハーストに働きかけてニュースの上映を止めてもらうよう懇願する。実際には、マリオンがワーナーと契約を結んだのは、ニュースが映画館で上映された10月19日よりも後の10月31日である。正式に移籍したのは翌年の1月1日付。

・マンクは、チャールズ・レドラーに『市民ケーン』の脚本を見せる。レドラーは、それが自分の叔母のマリオン・デイヴィスとハーストがモデルであることに困惑する。マンクは脚本のコピーをレドラーに渡す。これは「Raising Kane」に書かれた挿話であり、レドラーは脚本をマリオンとハーストに見せて秘密が露見したとされている。しかし、レドラー本人はこれは事実ではないと主張している。ピーター・ボグダノヴィッチのインタビューに答えて、レドラーは脚本の出来は悪かったこと、モデルはハーストではなく(別のメディア王である)ロバート・マコーミックだと思ったこと、脚本はその場で返却し、他人に渡したことはないことなど、「Raising Kane」の内容は「100%完全な嘘」だと断じている。

・マンクとメイヤーが選挙の結果をめぐって借金を帳消しにするかどうかで賭けをする。メイヤーがマンクの借金を気にかけていた挿話は「Raising Kane」にあり、そこから発想したと思われる。実際には、マンクが選挙をネタに賭けをしたという事実は確認されていない。また、選挙当日、マンクがフランク・メリアム候補の集会に出席していたという記録もない。

・ジョンがヴィクターヴィルを訪れ、マンクに兄貴がハーストに喧嘩を売ったという噂が広がっていると警告する。ジョンが来たことも、この時点で脚本の内容が流出していたことも、共に証拠がない。

シェリー・メトカーフはマンクの制止にも関わらず銃で自殺する。前述の通り、彼は架空の人物である。実際のフェリックス・E・フェイスト・Jr監督は戦後も活躍し、1965年に自然死した。

・脚本を読んだマリオン・デイヴィスがヴィクターヴィルを訪れ、マンクと映画について会話を交わす。しかし、彼女がヴィクターヴィルを訪れたという証言や記録はない。また、死後に出版された自叙伝『The Times We Had: Life with William Randolph Hearst』において、マリオンは当時『市民ケーン』の脚本を読む機会はなく、完成した映画も観なかったと証言している。

オーソン・ウェルズから電話があり、ハーストによる上映妨害やメイヤーによるRKO買収といった動きについて告げる。実際には、これらの出来事は半年以上も先、映画が完成した後に起こったことである。『Mank/マンク』では、ウェルズの撮った映画ではなく、マンクの書いた草稿がこれらの騒動を引き起こしたことに改変している。

・1937年、ハーストの晩餐会で酒に酔ったマンクは大演説をし、嘔吐する。「白ワインと魚が一緒に出てきた」という台詞は、酒乱だったマンクの有名なエピソードだが、実際には映画プロデューサーのアーサー・ホーンブロウ・Jrが主賓のパーティでの出来事と言われている。この台詞に限らず、場面全体が創作と考えられる。

・ウェルズが、ヴィクターヴィルを訪れ、マンクと『市民ケーン』に彼のクレジットを載せるかどうかで激しいやり取りをする。しかし、脚本クレジットをめぐる対立は、実際には8月末から翌1月にかけて起こっている。また、会話の内容も実情を無視している。例えば、この場面でウェルズは「約束を反故にしたら脚本家協会が調停に入る」と脅しているが、ハリウッドの異端児としてすでにバッシングを受けていたウェルズが、そのような認識をしていたとは考えにくいし、実際、のちに脚本家協会に訴えたのはマンクの方だった。映画でも触れられているように、マンクは高額のギャラと引き換えにクレジットを放棄する契約を合意の上で結んでいたが、ウェルズはこの契約を破棄せざるを得なくなった(映画では、この段階でウェルズがマンクのクレジットを認めたかのように描かれているが、実際には来年の出来事になる)

・同じ場面で、ウェルズはマンクに1万ドルを支払うから手を引くようにと持ちかけているが、これも「Raising Kane」の挿話に基づいている。これについてピーター・ボグダノヴィッチは「根も葉もない噂を事実かどうかも確認せずに書きっぱなしにした」と批判している。
 
・これも同じ場面で、ウェルズは激怒して酒の入った箱を壁に投げつける。それを見たマンクは、脚本にケーンが暴れる場面を付け加える。このくだりは、マンクではなくハウスマンの回想に出てくる挿話で、実際には『市民ケーン』よりも前の話になる。また、ウェルズ自身はハウスマンの作り話だと否定している。

・マンクとウェルズはアカデミー賞脚本賞を受賞する。ウェルズとは別に会見したマンクは、記者に対して「この賞をウェルズ氏抜きで受賞できてとてもうれしく思います。なぜなら、この脚本はウェルズ氏抜きで書かれたからです(I am very happy to accept this award in Mr. Welles’s absence because the script was written in Mr. Welles’s absence)」と発言する。これ自体は事実であるが、発言の内容そのものは事実ではない。ウェルズはマンクの書き上げた草稿を受け継いで、撮影台本として採用された第7稿まで改定を続けている。

(写真は、映画では描かれなかった、ヴィクターヴィルでくつろぐウェルズ、マンキーウィッツ、ハウスマン)

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【主な参考資料】

ポーリン・ケイル「Raising Kane」
https://www.newyorker.com/magazine/1971/02/20/raising-kane-i
https://www.newyorker.com/magazine/1971/02/27/raising-kane-ii
マンキーウィッツ単独脚本説を唱えた

ピーター・ボグダノヴィッチ「The Kane Mutiny」
https://classic.esquire.com/article/1972/10/1/the-kane-mutiny
・ケイルの主張に対する反論

ロバート・L・キャリンジャー「The Scripts of "Citizen Kane"」
https://www.journals.uchicago.edu/doi/pdf/10.1086/447995
・現存する脚本の全バージョンを精査し、ウェルズの関与を明らかにした論文

シドニー・ラデンソン・スターン「The Anti-Hitler Movie That Was Never Made」
https://www.commentarymagazine.com/articles/sydney-ladensohn-stern/the-anti-hitler-movie-that-was-never-made/
マンキーウィッツの幻の企画についてのエッセイ

ベン・アーワンド「The Chilling History of How Hollywood Helped Hitler」
https://www.hollywoodreporter.com/news/how-hollywood-helped-hitler-595684
・戦時中のハリウッドとヒトラーの関係についての記事

ジョセフ・マクブライド「Mank and the Ghost of Christmas Future」
https://www.wellesnet.com/mank-welles-mcbride/
・『Mank/マンク』を含めたオーソン・ウェルズの描かれ方についての批判

トム・シェイルズ「The Grand Old Grouch」
https://www.washingtonpost.com/archive/lifestyle/1988/11/01/the-grand-old-grouch/2cda3c39-0444-42e2-9249-abd8a2429331/
マンキーウィッツの戦時中の活動についてのエッセイ

マシュー・デッセム「What’s Fact and What’s Fiction in Mank」
https://slate.com/culture/2020/11/mank-movie-accuracy-david-fincher-upton-sinclair-netflix.amp
・『Mank/マンク』の事実関係をめぐるエッセイ

「Mank (2020) – Transcript」
https://scrapsfromtheloft.com/2020/12/04/mank-2020-movie-transcript/
・映画シナリオ

「Nerding Out With David Fincher The director talks about his latest, Mank, a tale of Hollywood history, political power, and the creative act.」
https://www.vulture.com/2020/10/david-fincher-mank.html
デヴィッド・フィンチャー監督のインタビュー

『スキャンダルの祝祭』(ポーリン・ケール、小池美佐子訳)新書館 1987年
・「Raising Kane」の翻訳
オーソン・ウェルズ偽自伝』(バーバラ・リーミング、宮本高晴訳)文藝春秋 1991年
・ウェルズの唯一の公認評伝
『「市民ケーン」、すべて真実』(ロバート・L・キャリンジャー、藤原敏史訳)筑摩書房 1995年
・作品の成立過程を追ったメイキング本
オーソン・ウェルズ その半生を語る』(ジョナサン・ローゼンバウム編、河原畑寧訳 キネマ旬報社)1995年
ピーター・ボグダノヴィッチによるインタビュー集