cinemania 映画の記録

cinemania’s diary

山田尚子監督、ロンドンで新作『Garden of Remembrance』と過去作を語る。――『けいおん!』は男性向け?『リズと青い鳥』は同性愛物?

人気監督の山田尚子が英国を訪れるのは、この10月が初めてではありませんでした。2012年に開催された「スコットランド・ラブズ・アニメ」のゲストとして『映画けいおん!』の上映会に登壇しているのです。偶然ですが、この映画もロンドンが舞台で、愛らしい軽音部の面々が日本から英国へとやってきました。

それから10年後、山田は再び「スコットランド・ラブズ・アニメ」のゲストとなりました。盛況だったQ&Aで、監督は英国でのかつての体験を懐かしそうに語ってくれました。例えば、スコットランド人はネッシーが存在しないという話を好まないこと、ハイドパークにある郵便箱のような容器は実は犬用であること、マーマイトはあまり美味しくなかったこと。最後の点については、観客の大半は彼女に賛同していました。

しかし、山田はノスタルジーのために海を渡って来たわけではありません。サイエンスSARUで制作した17分の短編『Garden of Remembrance』のワールドプレミア上映があったのです。これは喪失と、その後に訪れるもの――大切な人を失った孤独な少女の単調な暮らしと、その日常が突然に変わっていく様を描いた映画です。歌手のラブリーサマーちゃん、漫画家の水沢悦子とのコラボレーションによる大がかりなミュージックビデオとして作られました。

イベントの数日前、山田はロンドンに立ち寄り、私はそこで彼女にインタビューすることができました。最新作の話や、サイエンスSARUでの近作について尋ねています。またこの機会に、京都アニメーションで手がけた『けいおん!』をはじめとした愛すべき初期作品についても質問してみました。

***

――あなたは、京都アニメーションとサイエンスSARUでお仕事をされていますが、この2つのスタジオは「絵作り」に強い特色があり、ファンであれば、一瞥しただけで両者を見分けることができるでしょう。特に画面上でのキャラクターの動かし方には、はっきりとした美意識が感じられます。その点について何かご見解はあるでしょうか。例えば、ご自身の感性は保ったままスタジオを移れるものなのでしょうか?

山田:京都アニメーションでは、人間の感情をどう描くか、キャラクターの心の中がどのように動くのかを学びました。ただのアニメーションではなくて、彼らが経験していることを、あたかも現実の存在であるかのように描き出すということです。目的はアニメーションを作るというよりも、彼らをいかに現実にいる存在として扱い、現実的な人生を作り出すかということだったのです。私たちの役目は、アニメーターというよりは撮影監督になることでした。つまり、カメラマンの立場から、キャラクターたちが彼らの人生を歩むのに任せるのです。それが、私たちが追い求めたものであり挑戦でした。

その後、サイエンスSARUで『平家物語』を制作したとき、2つのスタジオには明らかな違いがありました。サイエンスSARUでは、アニメーションを動かすことを本当に楽しんでいたのです。アニメーションを作る喜びにあふれていました。異なる方向性がどのように融合していくのか、リアルな存在としてのキャラクターと、アニメーションを作る楽しさ、両方を経験することで、どのような化学反応を起こすのか、私自身も興味津々でしたね。

ですから、『平家物語』に取り組んでいたとき、私は意識的にカメラマンにはならないようにしました。『Garden of Remembrance』でもそうしています。それは『平家物語』で試みたことの発展形であり、今なお試行錯誤しています。ただ、『Garden of Remembrance』は「ぼく」の視点で撮っているので、2つのやり方が混在しています。単にカメラマンになるのではなくて覗き見るという視点です。そこで覗き込んでいるのは男性なんです。

――では、『Garden of Remembrance』は男性目線なのですね。

山田:そうとも限らないですね。この映画には、実は3つの視点が存在しています。1つ目は、描かれている世界からはもういなくなった男性で、失った恋人のことをずっと見守っているんです。2つ目の視点は、その恋人(「きみ」)。3つ目の視点は、また別の女性(「おさななじみ」)なんです。

――あなたのアニメでは脚の表現が重要だという指摘が多いのですが、『Garden of Remembrance』の女性キャラクターは、他のアニメの少女たちに比べて、どちらかというと太い脚をしていますよね。(漫画家の)水沢悦子に太めのキャラクターをデザインしてもらったとうかがっているのですが、なぜ、そのようなデザインを選んだのでしょうか?

山田:太めの脚は、デザインした方が持ち込んできたのではなくて、私がもともと水沢さんのデザインや絵がとても好きで、今回のプロジェクトに参加してもらったんですよ。彼女の描く女の子は、大体ムチムチしているんです。ご指摘のとおり、アニメのキャラクターよりはぽっちゃりとしています。社会的にかくあるべきとされているような容姿からはズレているわけです。だけど、その描かれたキャラクターたちが呼び覚ます質感が……、肌にふれることができそうな気がするんですね。寝起きでヨダレの匂いがしてくるような。そんな特徴が大好きだったので、彼女に声をかけたんです。

――以前『映画 聲の形』についてインタビューした際、「これまでとは異なる映画になりましたか?」という質問をしたところ、「それほど変わってはいません」と回答されていました。『Garden of Remembrance』についても同じ質問をしたいのですが、あなたの新たな方向性を示しているのでしょうか?

山田:私が、やりたいこと、目指していることの芯になる部分はあまり変わっていないと思います。どうして私がアニメを作るのかというと、人間という存在をとても大切に思っているからなんです。誰もが考えたり感じたりしていることや感情として経験していることに私は深い敬意を払っていますし、キャラクターたちのプライバシーについてもきちんと尊重したいのです。だから、彼らを描くときには配慮をもっていたい。そのことは、何を作るにしてもこれから先も変わらないと思いますね。アニメーションを作るにあたっては、いつも彼らへの尊敬の念を抱いています。

今回のサイエンスSARUとのコラボレーションもそうですが、これから先も、違うジャンルになるかもしれないし、主人公やその性格が変わることはあるかもしれませんが、私がやりたいことの芯の部分はずっと変わらないでしょう。

――初期の作品についても、いくつかお訊きします。一部のアニメファンは『らき☆すた』や『けいおん!』は、女子学生のグループをのんびりと描くゼロ年代の流行の一翼を担っていたと考えています。これが当時の流行であったことに同意されますか? もしそうなら、どうしてそのような流行が起こったと考えていますか?

山田:『らき☆すた』は別の監督ですね。私も京都アニメーションにいた頃ですので参加してはいますが。高校生のキャラクターをたくさん出す風潮はありましたし、当時の流行がまるで時代の特色だったかのように捉えている人もいるのかもしれませんね。ですが私自身は、その時代に沿ったアニメーションを作ろうとは思っていませんし、流行にはなるべく左右されないようにしています。それは、先ほど話したような理由からです。私は、キャラクターの感情を大切にしたいですし、それは、どんな時代であっても変わることはないでしょう。ですから、流行には意識を向けないようにしているんです。

――質問の続きになりますが、『けいおん!』は男性のアニメファン向けに製作されていたという指摘があります。しかし実際には、日本で『けいおん!』を熱心に見た層は女性率が高かったとも言われています。このことについて、何かおっしゃりたいことはありますか?

山田:ええ、プロデューサーたちが最初に目指していたというのは間違いありません。けれど、私が『けいおん!』を作っていた時は、そのような方向性だったとは考えてもみませんでした。私が意識していたのは……、ただ純粋に彼女たちの可愛らしさやひたむきさに心を動かされて、それをなんとか視聴者に伝えようと思っていたんです。プロデューサーたちが商業的な姿勢だとか狙いをあまり押しつけてこなかったことが『けいおん!』が受け入れられた秘訣だったのかもしれませんね。

――2017年にグラスゴーに来てくださった際、『聲の形』には恋愛の要素が含まれているが、ラブストーリーはもっとも重要な要素というわけではない、とおっしゃっていましたね。では、『リズと青い鳥』は主としてラブストーリーであると言えるのでしょうか。同性愛のラブストーリーだと明言して頂いてもよろしいでしょうか? 少女たちの中で、少なくとも みぞれは同性愛者なわけですよね?

山田:『リズと青い鳥』は、『たまこラブストーリー』もそうですが、いまお話にあった通り、同性愛者のラブストーリーとして読み取ってくださる人が多いのです。ですが、そこはあまり意図していたわけではありません。もう少し説明すると、ある性的指向を表現したというよりは、思春期を表現したのです。その数年間は、友情であったり、他人への執着であったり、依存心であったり、あらゆるものが重たくなります......。住んでいる世界が閉ざされているからです。私が描こうとしたのは、10代の青春を生きることがいかに大変なのか、そこにはどのような傾向があるのかということでした。

ですから、「はい、彼女たちは同性愛者で、これはラブストーリーです」というような単純な話にはならないのです。なぜかといえば、彼女たちが将来どんな相手と恋に落ちるのか、どう成長していくのか、私には何も説明することができないからです。描かれているのは、あくまでもその時の彼女たちの姿なんです。わかりづらい回答になりましたが。

――最後の質問です。これから、サイエンスSARUで長編映画を監督すると伝わってきましたが、本当なのでしょうか?

山田:ええ、サイエンスSARUと私とで長編の企画が進んでいます。今は絵コンテを描いています。これは大変な作業で、かなり頭を悩ませているところです。

www.animenewsnetwork.com

マイケル・チミノ監督と幻の映画企画たちについて

2016年に77歳で亡くなった映画監督マイケル・チミノは、生涯にわずか7本の長編作品しか残さなかった。デビュー作『サンダーボルト』を経て第2作『ディア・ハンター』でアカデミー賞・作品賞、監督賞など5部門を受賞し、早くもキャリアの頂点に立ったチミノは、続く第3作『天国の門』で製作費を大幅に超過し、批評、興行両面で大惨敗を喫したことで、以後ハリウッドのメインストリームに返り咲くことはなかった。イタリア人プロデューサーのディノ・デ・ラウレンティスの元で『イヤー・オブ・ザ・ドラゴン』 『シシリアン』『逃亡者』の3作を撮ったがヒットには恵まれず、遺作となった『心の指紋』はわずか23館での公開で、2万ドルの興収に終わった。人生最期の20年間、彼は短編1本をのぞいて映画を撮ることができなかった。しかし晩年においても映画への情熱を持ち続けていた。

1974年、監督第1作となるクリント・イーストウッド主演『サンダーボルト』が公開される。チミノは次回作としてアイン・ランドの小説『水源』を映画化すべく脚本を執筆している。主人公の建築家役には引き続きイーストウッドを起用しようとしていたが、大がかりな企画であったことや、チミノの脚本が原作を大幅に変えていたことなどから実現しなかった。

1976年には20世紀フォックスのために、ジャニス・ジョプリンの生涯を描くミュージカル伝記映画『Pearl』の脚本をボー・ゴールドマンと執筆する。この企画は頓挫したが、のちに形を変えてベッド・ミドラー主演『ローズ』として実現する。ゴールドマンは脚本家としてクレジットされたがチミノの貢献は認められなかった。

『Pearl』と同時期には、パラマウントで政治スリラー『Head of the Dragon』の企画も進んでいた。架空の南米の国が舞台で、アメリカは独裁政権を支援し、反乱軍のリーダーを暗殺するためにマフィアの殺し屋を差し向けるという内容だった。スタッフがドミニカ共和国でロケハンを行っていたが9月には中止となっている。(ちなみにパラマウントは直後にドミニカでウィリアム・フリードキン監督の『恐怖の報酬』を撮影した)

1978年公開の『ディア・ハンター』に取り組む直前までは、パラマウントでスリラー『Perfect Strangers』に取り組んでいたようである。チミノによれば自身のオリジナル脚本で『カサブランカ』のような政治劇の要素を含んだ三角関係のドラマだったという。主演にはロイ・シャイダーロミー・シュナイダーオスカー・ヴェルナーが予定されていた。チミノによれば脚本執筆にに18ヶ月を費やしたということだが、映画スタジオ内の政治的な駆け引きの末に中止が決まった。

さらにチミノは、これらの企画と並行して、マフィアの大物フランク・コステロを描く『Proud Dreamer(The Life and Dreams of Frank Costello)』の脚本をジェームズ・トバックと2年半かけて執筆していたと証言している。ロバート・デ・ニーロの主演が予定されていたが、20世紀フォックスの経営陣が変わったため企画は中止された。

ユナイテッド・アーティスツフレデリック・フォーサイスの小説『戦争の犬たち』の権利を1974年に獲得して以来、さまざまな監督たちが映画化に取り組んでいた。マイケル・チミノも脚本家として参加したようである。完成した映画にチミノはクレジットされていない。

チミノは『天国の門』の次回作として、フレデリック・マンフレッドの小説『Conquering Horse』の映画化を構想していた。白人が入植する以前のアメリカ西部を舞台にしたスー族の年代記で、台詞は全て英語ではなく先住民の言語で撮影しようと考えていたが、『天国の門』の大失敗により企画は消え去った。

1982年に、CBSの映画産業への進出が報じられた際、企画のひとつとしてチミノ監督による『Nitty Gritty』が紹介された。テレビの撮影班が特ダネを争うというブラックコメディで、後に『Live on Tape』と改題されている。

1983年には、コロンビア・ピクチャーズが、スティーブン・スピルバーグ製作による『Reel to Reel』をチミノの監督で映画化すると発表した。若い映画監督が50年代のSF映画『惑星アドベンチャー スペース・モンスター襲来!』をリメイクするという内容のミュージカルで、当初はスピルバーグ自身が監督する予定だった。脚本のゲイリー・デヴィッド・ゴールドバーグによれば、チミノが内容を暗いものに変更したため上手く行かなくなったという。

チミノはロシアの文豪ドストエフスキーに傾倒しており、以前から『罪と罰』の映画化を構想していた。そしてドストエフスキーの伝記映画を製作すべく、まずソ連出身の作家アレクサンドル・ソルジェニーツィンに脚本を依頼した。その内容に満足できなかったチミノは、1982年に作家のレイモンド・カーヴァーに脚本の書き直しを求めた。彼の小説『愛について語るときに我々の語ること』を気に入っていたのが理由だった。カーヴァーは妻で作家のテス・ギャラガーとともに2ヶ月で219ページに及ぶ脚本を完成させたが、カルロ・ポンティがプロデューサーをつとめたこの企画も実現しなかった。脚本は後に『Dostoevsky: A Screenplay』として出版されている。
 
さらにチミノとカーヴァーは1984年に『ディア・ハンター』『天国の門』の製作者ジョアン・カレリの原案を元に『Wagons East』というオリジナル脚本を執筆した。内容は刑務所帰りの不良少年が救済を求めて旅をするという、後の『心の指紋』のような現代西部劇と言われている。しかし、くり返し書き直しを要求するチミノに対しカーヴァーは小説を書く時間が取れないと不満を持つようになり、共同作業はこれ以上続かなかった。脚本は最終的に『Purple Lake』というタイトルになったが、これも映画化はされなかった。(ちなみにギャラガーによれば、カーヴァーはさらにもう一本、映画脚本を執筆しているがチミノと関連があるかは不明)

1983年からは、ラルフ・ハーンの小説『The yellow jersey』を映画化する企画にも取り組んでいる。世界最大の自転車レースであるツール・ド・フランスが舞台で、1984年にチミノは主演候補だったダスティン・ホフマンとレースを観戦している。またレーサーのエディ・メルクスに本人役で出演するよう交渉したという。企画が実現しなかった理由としては、レースを撮影する技術的な難しさや、チミノとホフマンの意見の対立が挙げられている。

チミノはケヴィン・ベーコン主演『フットルース』の監督も一時期つとめていた。製作のダニエル・メルニックは『天国の門』の二の舞になることを防ぐために、チミノに対し、予算を超過した場合はチミノの自己負担にすると警告していた。しかし、チミノは『怒りの葡萄』のような社会派映画にすべく内容を大幅に改訂しようとした。ロケ地の変更や大がかりなセットの建築を提案し、脚本を自ら書き直しはじめた。結局チミノは約6ヶ月ほど映画に関わった末、撮影前に解雇され、ハーバート・ロス監督により元の脚本に沿った形で映画化された。後にメルニックは「素晴らしい映画になったかもしれないが、私たちはエンターテインメントを作ろうとしていたんだ」と話している。

スチュワート・ローゼンバーグ監督の『パッショネイト 悪の華』も、当初はチミノが監督する予定であり、主演のミッキー・ロークエリック・ロバーツも決定していたが、チミノによる脚本改稿作業が遅々として進まなかっために交代させられている。

大手映画会社での企画がことごとく実らなかったチミノに、ディノ・デ・ラウレンティスが手を差し伸べる。ラウレンティスは、まずトルーマン・カポーティの短編小説『手彫りの棺』の映画化を提案し、次いで『バウンティ/愛と反乱の航海』の監督を依頼したが、どちらもチミノは断っている。後者はロジャー・ドナルドソン監督が引き受けている。

1985年に、ラウレンティスの製作により、5年ぶりの新作『イヤー・オブ・ザ・ドラゴン』を公開したチミノは、次回作としてウィリアム・ケネディの小説『Legs』に取り組んだ。禁酒法時代の伝説的なギャングを描く内容で、レッグス・ダイアモンド役にミッキー・ロークボディガード役にレナード・ターモが決まっていた。

チミノは『イヤー・オブ・ザ・ドラゴン』のキャンペーンで来日しているが、記者会見で、西部開拓時代に鉄道建設に従事した中国人移民を描く企画について触れている。

この頃、オリヴァー・ストーン脚本による『7月4日に生まれて』をアル・パチーノ主演で企画したが、実現しなかった、後にストーン自らの監督によりトム・クルーズ主演で映画化されている。(チミノは1984年にもストーン脚本・監督の『プラトーン』の製作に参加していたが『イヤー・オブ・ザ・ドラゴン』の興行的失敗で撤退。ストーンは別の体制で映画化した)

1987年に『シシリアン』が公開されると、次回作としてアイルランドの革命家マイケル・コリンズを描く伝記映画の準備に取りかかった。『アラビアのロレンス』のロバート・ボルトと脚本を執筆し、ガブリエル・バーンの主演が予定されていたが、予算やロケ地などさまざまな要因から延期となった。チミノは直ちに同じ製作会社で代替の企画を立てた。フロイド・マトラックス脚本のロマンティック・スリラー『Santa Ana Wind』である。ロサンゼルスを舞台に男の友情を描いた内容とされており、チミノは有名スターを起用せず低予算で短期間で作り上げる心づもりだった。12月からの撮影を予定していたが、製作会社の資金繰りが悪化して中止となっている。

1990年に『逃亡者』が公開。オリヴァー・ストーンの自伝によると、1990年前後にチミノが『The White Stallion』という映画を作る手助けをしている。野生馬をめぐる詩的な企画をカロルコ・ピクチャーズのマリオ・カサールに売り込み、1400万ドルの予算を用意させたが、チミノがあまりにも頑固だったため流れたという。

1993年には、ワーナー・ブラザーズの依頼で、クリント・イーストウッドのためにフィリップ・フィンチの犯罪小説『Paradise Junction』を脚本化している。化粧品会社を経営する夫婦が戯れに押し込み強盗をはたらき、刑務所帰りの男を犯罪に引き込むが、やがて男と妻が密通し、共謀して夫を殺そうとするというサスペンス物で、リー・リッチが製作する予定だったが、この企画も立ち消えになっている。

1996年に最後の長編映画となった『心の指紋』が完成。カンヌ国際映画祭コンペティション部門にも出品されたが無冠に終わる。試写会の評判も冴えず、製作のリージェンシー・エンタープライズはまともな形で公開しなかった。この頃からチミノはアメリカのマスコミとは距離を置くようになる。1997年には、ロドニー・ヴァッカロ脚本の『The Dreaming Place』に関わっている。自警活動をする男の物語だが、製作の初期段階で中止になったようである。

2001年に、香港出身のジョン・ウー監督が『Full Circl』 という題名の脚本をチミノに依頼したとインタビューで語っている。ウー自身の原案によるもので『狼 男たちの挽歌・最終章』のようなスタイルだったというが完成したかどうかは不明である。

2001年9月、チミノは、ヴェネツィア国際映画祭で自ら書いた小説『ビッグ・ジェーン』の朗読会を開催し、次はこの物語を映画にして戻ってくると宣言した。19歳の少女がバイクでアメリカを放浪し、最後には朝鮮戦争に出兵するという筋立てである。そして映画祭では、懸案の企画『人間の条件』を一部のジャーナリストに向けて発表した。

ノーベル賞作家アンドレ・マルローの小説『人間の条件』映画化は、チミノにとっては『天国の門』以来の大作となるはずだった。蒋介石による上海クーデターを背景にした群像劇で、中国政府からの協力を取りつけ北京や上海でのロケ撮影を予定していた。プロデューサーのミルコ・イコノモフは、2002年6月からの撮影に向けて、イタリアやフランス、日本からの出資を募っていると語った。また出演候補として、ジョニー・デップダニエル・デイ=ルイスジョン・マルコヴィッチユマ・サーマンアラン・ドロンの名を挙げているが、どこまで具体的に交渉が進んでいたかは不明である。チミノによれば製作費2500万ドルのうちの半分までは集まっていたという。旧知のディノ・デ・ラウレンティスにも助けを求めたが、妻で共同製作者のマーサ・デ・ラウレンティスが脚本を読み「もし刈り込めば、タイトで美しくてセンセーショナルな作品になるでしょう。しかし暴力的ですし、結局のところ、アメリカの観客が望むような内容だとは思えません」と判断したため出資を断られた。しかしチミノはその後も亡くなるまで映画化を諦めていなかった。

2007年にチミノはオムニバス映画『それぞれのシネマ』に参加した。34組の映画監督が映画館をテーマに3分の短編を製作するという趣向で、チミノの短編『翻訳不能』は、彼の最後の作品となった。

晩年のチミノはフランスの製作会社ワイルド・バンチといくつもの企画を交渉している。『Cream Rises』はロサンゼルスのモデル業界を描いた内容で、パリス・ヒルトンニコール・リッチーを下敷きにした若い女性モデルが退廃的な生活を送っているが、やがてひとりは殺され、もうひとりは叔父を探して西部の辺境を旅するという筋立てだった。製作のヴィンセント・マラヴァルによれば・チミノは当時ブレイク直前だったテイラー・スウィフトを主役に望んでおり、クリストファー・ウォーケンが叔父役に興味を示していたという。また、交通事故で片腕を失ったボクサーを描く『One Arm』や、昔からの企画だったアメリカ先住民の視点で描かれる西部劇も検討されていた。

2012年12月、チミノは短期間だけ運営していたTwitterでこうつぶやいている。「わたしは次に『人間の条件』を自分の脚本で映画化したい。またSFの脚本も書き上げたばかりだ。わたしは健康で保険にだって加入できる……」

2015年3月、最晩年のインタビューでチミノはアメリカのジャーナリズムとは縁を切り、ずっと取材には応じてこなかったこと、脚本や小説の執筆で日々を過ごしていることなどを打ち明けている。8月のロカルノ映画祭で生涯功労賞を授与されたのが、公に姿を見せた最後となった。チミノはここでも、次には新作映画と共に帰ってくると野心を語っている。自宅で死亡しているのを発見されるのは、それから約1年後のことだった。


クリント・イーストウッドマイケル・チミノの孤立について、2010年に次のように話している。
「『ハワード・ザ・ダック』を作ったジョージ・ルーカスも『ウォーターワールド』を作った男も、別に映画に殺されたりはしなかった。批評家連中が『天国の門』を嫌うようにお膳立てしたんだよ。この映画は大衆には受け入れられなかった。もしもヒットしていれば『タイタニック』のような扱いを受けていたはずさ。『タイタニック』は成功したから何もかもが許された」「彼自身にも責任があったと思う。『ディア・ハンター』への絶賛が、自分は天才だ、世界の王だと思い込ませたんだろう。しかし、そんな事を言い出せば、大衆は転落を望むようになる。俺はいつも言ってるんだよ。絶賛評も酷評と同じように受け入れるのに覚悟がいると。クズ扱いしてくる奴らは間違ってるかもしれない。でも褒めちぎる奴らも間違ってるかもしれないんだ」「マイケルに必要なのは、小さくても感情のこもった映画を作ることだ。期間は1ヶ月くらいで、特撮に頼らず、もっと自由に怖れずに撮るべきなんだよ」

●参考文献

『Cimino: The Deer Hunter, Heaven's Gate, and the Price of a Vision』 Charles Elton 著 Abrams Press 刊 2022年
・最新のチミノ評伝。

マイケル・チミノ読本』遠山純生 編 株式会社boid 刊 2013年
『映画監督の未映像化プロジェクト』遠山純生 編 エスクアイア マガジン ジャパン 刊 2001年
・ネットで読めるチミノの幻の企画については、この2冊を出典としているものが大半である。しかし、その記述は英語版ウィキペディアIMDBのトリヴィア欄と被る箇所が多い。

『Chasing The Light: How I Fought My Way into Hollywood』 Oliver Stone 著 Monoray 刊 2020年
オリヴァー・ストーンの自伝

『ファイナル・カット─『天国の門』製作の夢と悲惨』スティーヴン・バック 著 浅尾敦則 訳 筑摩書房 刊 1993年
レイモンド・カーヴァー 作家としての人生』キャロル・スクレナカ 著 星野真理 訳 中央公論新社 刊 2013年
『ビッグ・ジェーン』マイケル・チミノ 著 松本百合子 訳 ソニーマガジンズ 刊  2004年

Critic’s Notebook: Michael Cimino, a Comet that Blazed Brightly, Briefly
https://www.hollywoodreporter.com/news/general-news/critics-notebook-michael-cimino-a-908220/

Michael Cimino: The Full, Uncensored Hollywood Reporter Interview
https://www.hollywoodreporter.com/news/general-news/michael-cimino-full-uncensored-hollywood-778288/

Michael Cimino’s Final Cut
https://www.vanityfair.com/hollywood/2010/04/ciminos-final-cut-200203