cinemania 映画の記録

cinemania’s diary

てらさわホーク『マーベル映画究極批評』の問題点について

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 特に前置きもなく始めるが、まず、最初に気になった点。本書には出典の表記が見当たらないのである。

 最近、幻冬舎から歴史書という触れ込みで出版された『日本国紀』が、他の文献やウェブからの多数の転載があるにもかかわらず参照元の表記がない点で、厳しい批判を受けている。てらさわホークも、著者のことをTwitterで何度か批判していたようだ。しかし、この『究極批評』という書籍もまた、同様の欠陥を抱えているわけである。いや、これはただの「映画エッセイ」なのだから、そこまで厳密にする必要はない、ということなのかもしれない。しかし、それならば「批評」という言葉を安易に使っては欲しくない。また、単なる雑文集と割り切って読むにしても、参考文献の記載すら無いというのは、さすがに困ってしまう(ちなみに、この本には膨大な欄外註があるので、スペースの都合という理由ではなさそうだ)

 具体例をひとつ上げてみよう。本書では、マーベルの責任者であるアイザック・パールムッターについて、何度も言及している。MCUの歴史を語る上では外せない人物であり、現在は、ケヴィン・ファイギボブ・アイガーによって、映画部門からは事実上追われているという。パールムッターが、いかにMCUの内容に介入したのかについて、『アントマン』の章では、次のように解説されている。

マーベル・エンターテインメントCEO、アイザック・パールムッターの直下に組織された委員会には、同社社長のアラン・ファイン、マーベル・コミックス編集長ダン・バックリー、チーフ・クリエイティヴ・オフィサーのジョー・カサーダ、そして作家のマイケル・ブライアン・ベンディスと言うメンバーが集められ、スタジオが製作する映画作品に対して、さまざまな監修を行ったとされている。委員会からは、コミックとの整合性に関する細やかな指摘や、ときには脚本への修正指示までもが現場へのメモとして届けられた。コミッティのメンバーは、それぞれ本職を持っていたためにその指示は遅く、しばしば製作の現場に混乱を招いた。エドガー・ライトが『アントマン』からの降板を決めた背景にも、このコミッティからのメモがあったと言われている。
コミッティは、『ガーディアン・オブ・ギャラクシ-』のサウンドトラックにも口を出している。70年代のヒット曲が作品にそぐわないと判断したのか、または楽曲の使用料を節約しようとしたのか、それは定かではない。確かなのは、物言いをつけられてフラストレーションを溜めたジェームズ・ガンが、委員会を指して「コミック屋と玩具屋のグループ」と呼んだことだけだ。(P.146~147)

 この情報が何を出典としているかは、まったく説明がない。ためしに、いくつかのキーワードで検索すると、ヴァニティ・フェアの記事が数秒で見つかった。

Since this post originally went up, Birth Death Movies reported that in addition to cutting Ike Perlmutter out of the creative process, Marvel has also disbanded its Creative Committee, which consisted of “Alan Fine, who came with Perlmutter to Marvel through Toy Biz, Brian Michael Bendis, who is a prolific Marvel Comics writer, Dan Buckley, publisher of Marvel Comics and Joe Quesada, former editor-in-chief of Marvel Comics and the current Chief Creative Officer of Marvel Enterprises.” According to the report, the Creative Committee was responsible for a lot of delays on conservative feedback on Marvel cinematic properties.


https://www.vanityfair.com/hollywood/2015/09/marvel-studios-ike-perlmutter-kevin-feige

Director James Gunn chalked up every conflict he had making Guardians of the Galaxy to Perlmutter and the Marvel “creative committee”—a legacy of the studio’s early days—which read every script and gave writers and filmmakers feedback. Said Gunn, “They were a group of comic-book writers and toy people” who gave him “haphazard” notes. The committee, for example, suggested Guardians of the Galaxy ditch the 70s music that the film’s hero loves.


https://www.vanityfair.com/hollywood/2017/11/marvel-cover-story

 おそらく、これらのネット記事を参考にしつつ書いたと断定しても良さそうである。短い文章の中で” committee”の訳語が「コミッティ」「委員会」と全く統一されていないのも、そう言えば、グーグル翻訳を使うとよく起こる現象ではある(さすがに、そんなことは、してないだろうが)。こうやってネタ元がすぐに特定できれば、読む側も苦労はしないのだが、そうではない箇所も当然ながら出てくる。

 パールムッターは、マスコミにほとんど露出していないこともあり、ファイギやアヴィ・アラドといった他のマーベルの重要人物に比べると言及されることは少ない――日本語の文献としては、『ブロックバスター戦略:ハーバードで教えているメガヒットの法則』(アニータ・エルバース著)などがある――ため、下手をすると、この『究極批評』が、今後、資料として参照されてしまう事態もありえるわけだ。やはり、全てとは言わなくても、必要最低限、出典の表記は必要だろう。

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 次に気になる点を挙げると、本書の前半と後半で、著者の主張にブレが生じてくることである。

 てらさわホークの、フェイズ1からフェイズ2にかけての主張は、とてもシンプルである。アメコミヒーロー映画は単純で明るくて、演出もわかりやすいものが優れているというものだ。

 例えば『インクレディブル・ハルク』の章では、MCU以前に製作されたアン・リー監督の『ハルク』を酷評し、その重厚なドラマ作りを嘲笑する。そして、シンプルなアクションに徹した『インクレディブル・ハルク』を称賛して、次のように書く。

傍目から見れば、いかにも荒唐無稽な物語でしかない。だが、その物語の前後左右に立派な理由づけを行い、いかにも重大な価値のあるものにみせかけようとするのではなく、おなじみのストーリーを何の衒いもなく実写に叩きつけてみせる。これは明らかにコミックであり、それ以上でもそれ以下でもないが、マーベル・スタジオズ版『インクレディブル・ハルク』はそれを自信を持って堂々とやり切っている。そこに得体の知れない感動を覚える。

 また、『マイティー・ソー:ダーク・ワールド』の章では、当初の監督だったパティ・ジェンキンスが降板させられた件について、次のように解説している。

ジェンキンスがマーベル・スタジオズに提案したのは、宇宙をまたいだ『ロミオとジュリエット』とでも呼ぶべき物語だったという。(中略)ケネス・ブラナーのあとを引き継いだ監督が、シェイクスピア調になるのは理解できる。(中略)だが、ジェンキンスの提案した引き裂かれた男女のドラマはマーベル側の求めるものではなかった。(中略)かつて、ケヴィン・ファイギがいみじくも言ったように、コミック映画の成功の鍵はコミックそのもののなかにある。シェイクスピアであれギリシャ悲劇であれ、そうしたジャンルの威光を借りなくとも、コミックを映画にすればいい。その理念があったからこそ、ジェンキンスとの「方向性の違い」が生じたのではないか。そう思えてならない。(P.96~98)

 つまり、アメコミ映画は単純明快であるべきであり、マーベルもまた同様に考えているはずであり、故にパティ・ジェンキンス監督は解雇されたのだと主張しているわけだ。(ちなみに、ジェンキンスは、女性キャラクターをもっと活躍させようとして反対されたとする記事もある)

映画秘宝」などのライターとして、かつて、クリストファー・ノーランの『ダークナイト』や、ザック・スナイダーの『マン・オブ・スティール』などをくり返し批判し、最近では『シュワルツェネッガー主義』という著作もある、てらさわホークの、アメコミヒーロー映画についての評価基準は、おおむね、このような感じである。

 フェイズ1の『アベンジャーズ』の章では、クライマックスのニューヨーク決戦について、次のように述べている。「同時多発テロの記憶に理想的な結末を書き加えたい、という意志が働いていたのではないか。もちろん、これは仮説に過ぎず、ジョス・ウェドンとマーベル・スタジオズが何を考えていたかは知るよしもない」(P.77) このくだりからも、当初は、映画から安易に政治的メッセージを読み取らないよう、慎重な姿勢をとっていることがうかがえる。

 ところが、フェイズ2終盤の『キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー』の章になると、見方が大きく変わってくる。てらさわホークは、脚本家が、この映画は政治的ではないと発言していることを紹介した上で、「とはいえ、今の社会に対するコメンタリーが、どうしても行間から漏れ出している。作り手が何を言おうが、これは間違いなく21世紀の今日だからこそ成立した映画だ」(P.111)と断言するようになる。

 フェイズ3では、この傾向は更に強まっていく。たとえば、『マイティー・ソー:バトルロイヤル』について、「最初の有色人監督であるワイティティが、オフビートなコメディの底に政治的なテーマを置いたことは大きな意義がある」(P.201)と唱える。また『ブラックパンサー』も、MCU初の黒人ヒーロー主演作として、当然ながら賛辞を惜しまず、「暗喩ではない直接的な言葉をもって、現実社会への言及をマーベルがついに始めた。」(P213)と、メッセージそのものを評価するようになる。

 しかし、もともとの主張を当てはめるなら、『プラックパンサー』は、「物語の前後左右に立派な理由づけを行い、いかにも重大な価値のあるものにみせかけようと」した典型的な作品であるはずだ。しかも、てらさわホークは、アクション描写の不出来さを厳しく批判して「ここまで凡庸なアクション場面を、なぜよしとしてしまったのだろう」(P.211)とまで言っているのだ。アクションはダメだけどメッセージに賛同するから絶賛します、というのでは、フェイズ1を論じていた頃の姿勢とは、ずいぶんと離れている。

 これが単に、MCUの作風が、昔と今では変化してきたので、評価の仕方も変えたのだ、というのであれば理解はできる。だが、てらさわホークは、フェイズ3の章に入ると、「コミックへの実写化を臆面もなく繰り返してきたかと見えたマーベル・スタジオズの作品は、実はそこかしこに現代社会へのコメンタリーが仕組まれてきた」(P.212)と『インクレディブル・ハルク』の章で言ったことを、ひっくり返すのである。
 もし、てらさわホークの主張を説得力のあるものにするならば、フェイズ1とフェイズ2の作品群にも、さまざまな「政治的暗喩」が仕組まれていたことを、あらかじめ指摘しておかなければならない。だが、そのような指摘は、ほとんど見られない。

 たとえば、『キャプテン・マーベル』の章で、てらさわホークは、次のように唱える。

パターナリズム、すなわち父権主義。立場の強い者が、弱い者の意思決定に強制的に介入する。その考え方が誤っていたとしても、まず尊敬することを求められる。そんな理不尽なシステムに、マーベル・ヒーローたちは悩み、苦しんできた。(P.239)

 まるで父権主義との戦いが、シリーズのテーマであったかのような書きぶりである。もしも、それまでの章で、このような議論を積み重ねてきたのであれば、この言葉にも説得力が生まれただろう。しかし、MCUにおいて父と息子の葛藤がよく描かれるという指摘こそ、何度かあるものの、そこから「理不尽なシステム」への批判を読み取るような姿勢は感じられなかった。

 ソーの3部作は、父オーディンの影響から主人公がついに脱して、とうとう自己を確立するまでのストーリーと読むこともできる。(P.239)

 こんな発言にしても、過去の3つの章で、そういう読み方を明示していない以上は、後出しジャンケンの感は否めない。

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 本書が、後づけで加えていくのは、「父権主義批判」だけではない。人種をめぐる問題もそうである。

 てらさわホークは、『ドクター・ストレンジ』の章の最後で、突然「ホワイトウォッシュ問題」にふれる。原作コミックではチベット人とされるエンシェント・ワンを白人女性のティルダ・スウィントンが演じた点については、当時大きな批判があり、マーベルやスウィントン本人も声明を出して、差別的意図はなかったと弁明する事態になった。てらさわホークは、この批判に賛意を示し、「マーベル映画においては人種の多様性が解決されるべき問題として残っていることも事実ではある。」(P.172)と唐突に言い出すのだ。

 唐突と書いたのは、本書では、人種は多様であるべきという主張は特にされてこなかったからである。それどころか、『キャプテン・アメリカ/ファースト・アベンジャー』の章では、主人公が所属するハウリングコマンドーズが「人種国籍混合の寄せ集め部隊」(P.64)として描かれる点について、第二世界大戦当時にはありえなかったはずだと、時代考証の観点から批判していたほどである。

アイアンマン3』の章ではどうだろうか。この作品には、ヴィランとして、アジア人のテロリスト、マンダリンが登場する。演じるのはベン・キングスレー。過去にも、『ガンジー』に主演した経歴の持ち主である。少なからぬ観客は、「また白人が有色人種を演じるのか」と思ったのだが、実は、その正体は、トレバー・スラッテリーという俳優が演じた偽物だった事が明かされる。これは、「ハリウッド映画は、オリエンタルな悪役を好んで登場させ、白人に演じさせてきた」という過去を踏まえたトリックである。普通なら、白人が東洋人を演じている時点で明らかに変なのだが、観客は、そういうものとして見過ごしてしまうという「偏見」を利用したわけだ(キングスレー自身はインド人の血筋をひいているが)。しかし、てらさわホークは、マンダリンについては全く論じていない。あらすじ紹介で名前が出るのみで、正体にも触れていない。興味の対象外なのだ。

 MCUには、その後も「人種のトリック」を用いた作品がある。『スパイダーマン:ホームカミング』は、マイケル・キートンが、ヴィランのヴァルチャーを演じている。一方で、ローラ・ハリアーが、ヒロインの一人であるリズ・アレンを演じている。二人をめぐるドラマは並行して描かれるのだが、クライマックスで思わぬ形で交差する。実は二人は親子だったのである。白人のキートンと、黒人の血をひくハリアーが、血縁者を演じていると想定していなかった観客は、ショックを受けたことだろう。(ここで、『ホームカミング』が、過去の『スパイダーマン』シリーズに比べても、ニューヨークの人種混合ぶりを丁寧に描いてきたことが、ある種の伏線だったことがわかる)
 てらさわホークは、ヴァルチャーことエイドリアン・トゥームスのキャラクター造形を絶賛しており、数ページにわたって論じている。問題の場面も、「このトゥームスこそが、ピーターの好きになった同級生、リズ・アレンの父親だということが明らかになった際の衝撃。」(P.190)と褒めているのだが、しかしここでも、人種のトリックには触れていない。

 こうして見ていくと、てらさわホークが、MCUにおける有色人種の描き方について、注意を払ってきたようには、あまり思えないのである。

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 本書は、本来の完結編である『アベンジャーズ/エンドゲーム』は取り上げておらず、最後の章が『キャプテン・マーベル』になっている。

 ここでも、てらさわホークは「主人公がパターナリズムを明快に突破するところに、『キャプテン・マーベル』の新しさと素晴らしさがある」(P.240)と、政治的なメッセージを讃えている。先に紹介した『ブラックパンサー』の章における「暗喩ではない直接的な言葉をもって、現実社会への言及をマーベルがついに始めた。」(P213) といった発言と合わせると、まるで、本書の結論は「MCUは、政治的主張の強調を新しく始めた」といった風にも読めてしまう――およそ政治的とは言えない『エンドゲーム』を観てしまえば、かなり怪しい見方であることは明らかではあるが。

 それにしても、『キャプテン・マーベル』のフェミニズム的なメッセージを高く評価するこの『究極批評』の中で、女性について、どれだけ語られてきたのだろうか。

 MCUは、『ドクター・ストレンジ』以前にも、いわゆる「政治的に正しくない描写」が批判を浴びたことがある。『アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン』で明かされた、ブラック・ウィドウが不妊手術を受けさせられていたという設定に対してである。しかし、てらさわホークは、この件について「ウェドンに対する指弾は、少々短絡的に過ぎるのではないかと思う。」(P.135)と軽くあしらって、おしまいにしている。

 最初から読み返してみても、『アイアンマン』の章にはペッパー・ポッツの名前は出てこない。『インクレディブル・ハルク』のベティ・ロスは、あらすじ紹介に登場するのみ。『アイアンマン2』で初登場したブラック・ウィドウは、ニック・フューリーの部下としか説明されない。『マイティー・ソー』のジェーン・フォスターも、『キャプテン・アメリカ』のペギー・カーターも、ほぼ同様である。 
 それどころか、フェイズ3の『ブラックパンサー』の章でも、黒人ヒーローが描かれたことに最大級の賛辞を送りつつ、女性キャラクターについては、シュリもオコエも、名前すら出てこないのである。『ガーディアン・オブ・ギャラクシー』の、ガモーラやネビュラですら、特筆されているわけではない。

 結局、本書で、MCUの女性描写について、「彼女たちのキャラクターにはひとつの枷が嵌められていないだろうか」(P231)という問題提起が初めてなされるのは、最後から2番めの章にあたる『アントマン&ワスプ』にいたってのことになる。しかもそれは、MCUにおける男性サイドキック(相棒)が単調だという指摘とセットになっており、どうも、てらさわホークは、女性キャラクターにサポート役以上の意味を見出していないかのような書きぶりなのである。

 率直に言ってしまうと、てらさわホークの女性キャラクターたちに対する無関心ぶりは、本書が何度も批判的に言及するアイザック・パールムッターの女性軽視とは、さして距離がなさそうに見える。それが『キャプテン・マーベル』の章で、突然のフェミニズム讃歌となるので、一読者としては戸惑うしかない。

 てらさわホークが関心を向けないのは、何も女性キャラクターだけではない。本書では、それまで各監督の個性について、それなりの紙数を割いてきた。ルイ・テレリエ(P.35)やアラン・テイラー(P.98)、ペイトン・リード(P.142)といった、世間では、ほとんど作家性を論じられたことのない監督でさえ、わずかでも言及はあった。ところが、『キャプテン・マーベル』の共同監督であるアンナ・ボーデンとライアン・フレックは、すっかり無視されているのである。特にボーデンは、MCU映画では初の女性監督であるにもかかわらず、プロフィールの紹介すらないのだ。これが単なる、見落としでも、うっかりミスでもなさそうなのは、DCユニバースの『ワンダーウーマン』にも何度か言及しているのにも関わらず、その監督がパティ・ジェンキンスである点について触れていないことからも推測される――ここで、ジェンキンスの『ダーク・ワールド』降板事件を、一方的に彼女の非であるとしていたことを思い出してもいいだろう。

 ともあれ、女性の父権からの解放の素晴らしさを謳い上げつつも、その作品を作りあげた女性が「見えない人間」と化しているのは、この本の特徴をよく表しているように思える。

 他にも気になる点は幾つかあるのだが、すでに長文となってしまったので、ひとまず、ここまでとしておく。今後、版元に増補版を出す意志があるのであれば、単に『エンドゲーム』の章を足すだけではなく、特にフェイズ1から2にかけての部分は、全面的に手を加えるべきだろうし、できれば、資料の出典も付け加えるように著者に求めれば、より良い内容になるのでは、と思われます。


【主な参考資料(ウェブ限定)】

"Secrets of the Marvel Universe"
https://www.vanityfair.com/hollywood/2017/11/marvel-cover-story

"Avengers: Endgame Doesn’t Just Mark the End of the Avengers as We Know Them"
https://www.gq.com/story/avengers-endgame-doesnt-just-mark-the-end-of-the-avengers-as-we-know-them

"Why It Matters That Marvel Studios Just Escaped Its Eccentric Billionaire C.E.O. "
https://www.vanityfair.com/hollywood/2015/09/marvel-studios-ike-perlmutter-kevin-feige

"Superheroes soar above Disney tensions"
https://www.ft.com/content/34fe39a6-e79f-11e1-8686-00144feab49a

"Why Director Patty Jenkins Left Marvel’s “Thor 2”"
https://www.buzzfeed.com/susancheng/patty-jenkins-thor-2

"Why 'Thor: The Dark World' is Still Marvel's Worst Movie"
https://www.moviefone.com/2018/11/06/thor-the-dark-world-worst-marvel-movie/

"Disney And Marvel Do Damage Control After Media Scrutiny Of Big Boss Ike Perlmutte"
https://deadline.com/2012/08/disney-and-marvel-do-damage-control-ike-perlmutter-from-media-attacks-320837/

"Marvel Shake-Up: Film Chief Kevin Feige Breaks Free of CEO Ike Perlmutter"
https://www.hollywoodreporter.com/news/marvel-shake-up-film-chief-819205

"Spider-Man's colourblind casting: a case of when it's OK to break with the canon"
https://www.theguardian.com/film/2016/aug/22/spider-man-colourblind-casting-zendaya-mary-jane-watson

"Tilda Swinton feels ‘collateral damage’ of Doctor Strange ‘whitewashing’ controversy"
https://www.scmp.com/culture/film-tv/article/2027800/tilda-swinton-feels-collateral-damage-doctor-strange-whitewashing

”Sir Ben Kingsley: Trevor Slattery Could be The Mandarin After All”
https://www.ign.com/articles/2014/08/27/sir-ben-kingsley-trevor-slattery-could-be-the-mandarin-after-all