cinemania 映画の記録

cinemania’s diary

キネマ旬報『リチャード・ジュエル』特集の町山広美の文章が酷かった

f:id:cinemania:20200123203706j:plain 

 キネマ旬報2020年2月上旬号の『リチャード・ジュエル』特集に掲載された町山広美の文章が酷かった。映画の内容とは関係なく、イーストウッドはトランプ支持だと非難して、彼の作品を支持する人たちまでも揶揄する。最後も唐突に「戦争が始まろうとしている」とトランプ批判になる(始まらなかったけれど)。やれやれまたか、という感じだが問題はそこだけではない。

 町山広美は、映画のとある描写が、冤罪事件の加害者である新聞社から事実と異なっていると反論された事を紹介――なぜか反論の内容そのものは書かないのだが――したその後に、そのまま行替えもせずに<この映画の日本公開版に「事実に基づく」のテロップが出ない>と続けている。しかし、ここ数年のクリント・イーストウッド監督の実話物で言えば、『アメリカン・スナイパー』も『ハドソン川の奇跡』も『15時17分、パリ行き』も、”based on a true story”といった類のテロップは本編には出していなかったはずである(ポスターや予告編は別にして)。したがって、『リチャード・ジュエル』にその手のクレジットが存在しなくても、別に特筆するようなことではない。町山の文章では、これら過去の作品にも言及しているのだから、この点について知らなかったというのも考えづらい。
 要は、関係のない事柄を続けて並べることで、両者に因果関係があるかのように粉飾する、よくある詐術だろう。これでは、まるで配給のワーナーが信憑性に自信がないから「事実に基づく」の表記を避けたかのように読者を誘導していると指摘されても仕方がないのではないか。

 また、映画が男性中心主義的に作られていると力説するために、キャシー・ベイツ――先日、アカデミー賞助演女優部門にノミネートされるなど高い評価を得ている――の演じた母親の存在はすっかり無視するという、実にわかりやすい情報操作もしている(主役のプロフィールを「母親に世話を焼かれての二人暮らし」と説明する箇所でのみ言及)。ほかにも、おかしな点は、いくつもあるのだが、とりあえず二つのみ挙げておこう。

 なぜ最初に「やれやれまたか」と書いたかと言うと、この手の政権批判と作品を無邪気に結びつける人って、昔から多いんですよね。『許されざる者』は銃規制を批判している(加藤幹郎)とか、『ミスティック・リバー』は湾岸戦争を容認している(長谷川町蔵)だとか、なぜかクリント・イーストウッドは、そういう絡まれ方をされがちなのだ。要は「イーストウッドタカ派」というイメージに縛られて、反暴力・反権力のテーマさえ見えなくなる人も大勢いるわけなのだが、町山広美の文章は、その最新の亜種といったところだろう。なにしろ、イーストウッドが、個人の発言として反戦の立場を表明し続けている事実すら受け入れたくない(P.36)と言うのだから。